data_098:【急募】平常心
恋っていうのはもっと甘くてふんわりしていて、幸せで夢見心地で、毎日が楽しく輝いて見える魔法のようなものだとばかり思っていた。
こんな呼吸困難に動悸や眩暈なんかを伴う悲惨な状態だなんて知らなかったのだ。
正直ちっとも楽しくない、それどころか今までのような平穏な暮らしができないのでは困ってしまう。
第一班の秘書としてこれからも毎日ソーヤと顔を合わせるのに、あの目ざとい班長からどうやってこの気持ちを隠し通せばいいというのか。
っていうか、これがほんとうにあの『恋』?
言葉から感ぜられるような素敵な気配は微塵もないし、それに恋をすると女の子はきれいになるものらしいのに、今のところヒナトはちっともキラキラしていないのだが。
どうにも実感が湧かないまま、洗濯が終わったのを区切りにしてメイカと別れた。
屋上に洗い上がったものたちを干してからオフィスに戻る。
その道すがら、もしかしてメイカにからかわれたのではないか、という気がしてきたヒナトは思わず苦笑いした。
彼女に相談したのは不正解だったのかもしれない。
少なくともヒナト自身が確信を持てるまでは誰にも言わなくていいや、という結論に至りながら事務所のドアを開いた。
……なぜか床の片づけをソーヤがひとりで熱心にやっていて、ワタリはいつもどおりパソコンに向かい合っているという、ちょっとコメントに困る光景が広がっていた。
「えっ……ご、ごめんなさいゆっくりしすぎました!?」
「あと二分遅かったら説教かましてたな。今回はぎりぎり許してやる」
「ひぃぃありがとうございますっ」
「いいからとっとと代われ。でもって終わったら茶淹れてこい。あと俺の肩を揉め」
肩を揉め!?
そんなの初めて頼まれた、と驚いたヒナトだったが、床にぶちまけたココアの掃除までしてくれたのならそれくらいの返礼は当然か?
とりあえず慈悲深いんだかそうでもないんだかわからないソーヤの言葉に、絶句するヒナトに代わってワタリがクレームを挟む。
「ソーヤ横暴~」
「一切手伝わなかったおまえが言うな」
「……お? じゃああの話ヒナ──」
「やめろ」
ソーヤがすばやく遮ったので、ワタリが何を言いかけたのかはわからなかった。
なんかヒナトの名前を出されたような気がしたのだが気のせいだろうか。
小首を傾げつつも、せっかく免れたお小言を再び呼ばないためにヒナトはせっせと床に散らばるこまごましたものを拾い始めた。
・・・・+
片づけを終え、お茶を淹れて、ようやく一息つけそうだとヒナトは安堵した。
厳密にはソーヤの肩揉みとかいう未知のミッションが残っているわけだが、たぶんそれはそんなに難しくはないだろう。
なにせ肩を揉めばいいだけだし、しかもその間は彼の背後に回るわけだから視線を気にしなくてもいいのだ、……とヒナトは呑気に構えていた。
あとから思えばやったこともない仕事を軽く考えすぎである。
まずいことに気付いたのは、ジャケットを脱いだソーヤの肩に手を置いた瞬間だった。
思ったより近い。
目の前にさらさらの黒髪があって、ほんのりシャンプーの香りと汗の臭いがヒナトのところまで漂ってきている。
それらに加えて掌に感じる体温がヒナトの脳を刺激して、いつかの記憶を呼び覚ますのだ。
ソーヤの部屋で──ドアの内側で、泣きじゃくるヒナトを彼がずっと抱きしめていてくれたあの日のことを。
思わず顔が赤くなり、なんてとんでもない経験をしてしまったんだと叫びたくなる。
しかしソーヤにこの動揺を悟られてはまずい。
ヒナトはぐっと堪えて口を固く結び、できるだけ心を無にして、もくもくと硬く張りつめたソーヤの肩を指圧した。
「……なんかおまえ鼻息荒くね?」
「んぶッ……き、気のせいじゃないですかね……!?」
鼻呼吸に切り替えていたのが仇となったか。
誤魔化すべく手にめいっぱい力を込めたところ、痛いというクレームをいただきはしたが、話題を逸らすのには成功したらしい。
ふいにワタリが立ち上がり、オフィスを出て行った。
何も言っていかなかったということはトイレか何かだろう。
ヒナトは気にせずマッサージを続ける。
やっているうちに慣れてきたものの、ついでにちょっと手がだるくなってきたのだが、たぶんソーヤがいいと言うまでは止めてはいけない。
早く終わらないかなあ、と正直に思ったところでソーヤが口を開いた。
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