data_078:生きとし生きるイミテーション
その瞬間、ヒナトの全身からどっと汗が噴き出す。
手にしていた箒が指から転げ落ち、床にぶつかって妙に甲高い音を立てるのを、どこか遠くのできごとのように聞いた。
一瞬置いてから、ようやくヒナトは箒を拾う。
そのために屈みながら、いつの間にか息がちゃんとできるようになっているのに気付いたが、代わりに今度は心臓がばんばんと痛いくらいに跳ねまわっていた。
それをどうにか落ち着かせようと、しゃがんだまま深呼吸をする。
「……どしたの? 大丈夫?」
「だ、……だいじょぶです。あー……あああの、あたし、お花洗うついでにお茶淹れてきますね……」
「花? ああこれか。ついでに種類も変えてこいよ、季節が合わねえ」
ソーヤが花瓶から造花を抜き取ってヒナトに放る。
濃い赤い花びらのついたそれは、何か月か前にヒナトが資材庫で適当に選んできたものだ。
どうせイミテーションだし、見た目が華やかでかわいいやつならなんでもいいやという考えだったので、名前も季節もよく知らない。
「アネモネは一応多年草だけどね。まあ春咲きのイメージが強いから、確かに夏っぽさは薄いかな」
ワタリの言葉にソーヤも頷いている。
なんでこの人たち妙に花に詳しいんだろう、別に好きそうでもないのになあ、とヒナトは小首を傾げつつオフィスをあとにした。
その後何度かNGをくらい、最終的にヒマワリの造花を飾ることになった。
・・・・・+
昼、いつもは静かな休眠室に、今日は多くの人間が集まっている。
今まさに休眠に入ろうとしているソアの少年と、その世話や管理に忙しいラボの職員たち、そしてそれを見届けにきたソーヤとヒナトの姿がそこにはあった。
どうしてここに来ようと思ったのかはソーヤ自身よくわからないのだが、なんとなくヒナトひとりで行かせないほうがいい気がしたのだ。
例によってタニラがついてこようとしたものの、エイワといるよう頼むように言ったら素直に従ってくれたが、あとはのちにまた何かの揉めごとにならないことを祈るしかない。
そんなソーヤの思考をよそに、休眠準備は着々と進む。
休眠用の真っ白な服に着替えたコータは、硬い表情も相まって、まるでこれから棺に入るかのようだった。
実際、植木鉢は少しそれらしい形状をしてもいる。
少年がその中に身を横たえたところで、急にヒナトがそちらに駆け寄った。
あまりにも突然の行動に驚き、どういうつもりかわからなかったが、とにかくソーヤもすぐそのあとを追う。
こういうところがあるから、彼女から目を離せない。
「秘書さんと……班長さん」
駆け寄ったふたりを見て、初めてその存在に気付いたようすのコータが呟くように言う。
その声は聞きとりづらいほどに小さい。
ヒナトは彼の手を拾い上げて、さほど大きさの変わらない自分のそれで包むように握り込んだ。
たぶん何か声をかけてやりたかったのだろう。悄然としたまま長い眠りを迎える少年に、少しでもその心を穏やかにさせられるような、そんな言葉を。
けれどそう都合よく思い浮かぶはずもなく、ヒナトは開きかけた口を曖昧に動かしただけだった。
ソーヤとて、彼女の代わりに何かできるわけでもない。
ただヒナトの隣に立って、すべてを見守ってやるしかできないのだ。
「──ない……」
「え?」
少年が何事かを囁いた。
聞き取れなかったふたりは、顔を見合わせてから聞き返す。
コータの苔色の瞳が、ちらりと揺れる。
周りに犇めく機械から放たれた無数ランプの明かりを取り込んで、万華鏡のようにきらきらと輝くそれは、次第に融けて虹色の雫になった。
白い頬を、キャンバスに筆が走るようにしてそれが一筋流れ落ちる。
「フーシャがいなくちゃ……フーシャだけ描くって決めたから……だからもう、絵が描けない……」
「コータくん」
「眼を……醒ましたく、ないよ……。
このまま、ずっと眠ってしまえたらいいのに。そしたらフーシャがいる……フーちゃんのところに、僕も行けるよね……?」
そのあと、少年は壊れたスピーカーのように、フーシャの名前を呼び続けた。
どろどろに融けた眼はもう曇って何も見えていない。
ソーヤもヒナトも他の職員も、彼の前には存在していないのと同じで、こちらの声には二度と反応しなかった。
職員から離れるように指示があり、まだ名残惜しそうなヒナトを、ソーヤは無理やり彼女の手を開かせた。
震えているそれを握って、植木鉢から離れる。
職員が注射器を使って何かの薬剤をコータに投与し、横たわらせた。
そして植木鉢の内側から伸びる幾つもの電極やチューブをコータに繋いでいく。
休眠中に生命を維持するためのそれらは、今この状況では、彼をこの世に縛り付けるための鎖に他ならなかった。
だが、だからといってそれを止められるはずもない。
少年が生きる希望を失ったとしても、花園は彼の──ひいてはソアの心情など汲みはしない。
「ちゃん……フー……ちゃ……」
少年の声は途切れていって、そのうち完全に聞き取れなくなったころ、植木鉢の蓋がゆっくりと閉じられた。
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