data_076:揺れるともしび②

 冷静なところでは、言うべきではないとわかっている。

 本能に近い部分では、どうしても訊いてみたいという欲望がちらついて離れない。


 ──なあヒナ、もし俺が死んだら──。


 そして結局、その問いがソーヤの口から改めて発されることはなかった。

 もう一度口を開いたところで、背後のドアが力強くノックされ、扉の向こうから親友を名乗る男の声がしたからだ。


 なんだよこんなときに、と文句を言いかけて、ベッドサイドにあるデジタル時計の数字が目に入る。

 夕飯の時間が迫っていた。

 集団生活を基本としている花園では時間厳守が鉄則だ。階層ごとに入浴や就寝もすべて時刻が決められている。


「……悪い、先に行っててくれ。ちょっと今手が離せねえから」

『へ? あぁ、わかった。早く来いよー』


 ドア越しに、エイワが去っていく気配を確認して息を吐く。


 それからヒナトを見た。

 彼女もエイワの声に驚いたようで、若干涙が引っ込んでいるし、それに多少落ち着きを取り戻したようだった。

 そして自分の今の状況──ソーヤの腕の中にいるという事実を改めて確認し、困惑しているふうに見える。


「え、と、あの、ソーヤさん」


 ソーヤはヒナトと時計とを交互に睨む。


 もう少しこうしていてもいいのでは、という気持ちと、時間は守らねばならないだろう、という自分の信条とが、頭の中でかち合っていた。

 そして最終的に勝ったのは後者だ。

 自分の都合でルールを曲げる姿など、ヒナトに見せるわけにはいかない。


 だからヒナトから手を離し、ドアのロックを解除した。

 それから顔だけ出して廊下を見回し、あたりに誰もいないのを確認すると、ヒナトに外に出るよう促す。


「……誰かに見つかると面倒くせえから、階段で行けよ。エレベーターで誰かに鉢合わせるとまずい」

「あ、はい。……あの」

「なんだよ」


 ヒナトは自分の指先を見つめながら、おずおずと尋ねる。


「……ソーヤさん、さっき、その……何て言おうとしたんですか……?」


 訊いてくれるな。

 などと言えるはずもなく、ソーヤは誤魔化すために、ヒナトの頭をくしゃりと混ぜた。


「なんでもねえよ。それよりさっさと行け、ほら」


 もちろんそんな言葉では納得いかなそうなヒナトだったが、しかしそれ以上は追及せずに大人しく階段へ歩いていった。

 普段から躾けた成果だろう。

 ソーヤのほうが彼女より立場が上であることと、それゆえソーヤには逆らってはいけないということが、彼女の中に染みついている。


 だからヒナトは、基本的にソーヤの言葉には服従する。

 そうあるように指導している。


 そして、そう仕向けてきたソーヤ自身は、ヒナトの背中を見送りながらこんなことを考えるのだ。


 ──なあヒナ。もし俺が死んだら、おまえは今よりもっと泣くよな。


 現実問題として、ソーヤのほうがヒナトより先に死ぬ可能性が高い。

 そしてこの身に抱えた病理の闇が晴れるより先に、その時が来てしまう可能性のほうが、ずっと高い。


 ──泣いて、泣いて、おかしくなるぐらい泣いて、そのうちぶっ壊れちまうんだろう。


 ソーヤを不調が襲うたび、残される者たちのことを考える。

 頭が割れそうなほど痛むときに、胃の中身をすべて洗面台にぶちまけたときに、朦朧としてベッドに倒れ込みながら意識が途切れる直前に。

 今もし自分がここで死んだなら、タニラやヒナトのことを誰に任せればいいだろうと。


 幸か不幸か、エイワが目覚めた。

 昔の自分が親友としていたくらいだから、たぶん彼は信頼できる男だろうし、タニラとも親しかったらしい。


 だからタニラは彼に託そう。

 きっと彼女も壊れるくらいに悲しむだろうが、もうすでにソーヤは充分にタニラを傷つけたのだ。


 こんな男のことなど忘れてほしい。

 ソーヤが死んだら、それですべてを清算して、もう彼女を苦しめない、彼女を裏切らない相手を見つけてほしい。

 それがエイワであることを願っているし、期待している。


 でも、それならヒナトはどうする?


 こちらは頼める相手が見つからない。少なくともワタリではない。

 ワタリ個人を否定するつもりはないが、彼には恐らく、ヒナトの悲しみを受け止めてやるだけの余裕がない。


 だから。


 だからソーヤが死ぬときは。


 (おまえを残すくらいなら、いっそ、一緒に)


 ……。

 完全にヒナトの姿が見えなくなってから、ソーヤはのろのろと廊下に出た。


 誰もいない無機質な空間に己の呼吸音だけが静かに響く。

 もう時間だ。

 みんな食堂に集まっているだろう。早く行かないとエイワに何か言われるかもしれない。


 蛍光灯が切れかけているのか、一か所だけ時折ふっと暗くなるところがあるのに気付き、ソーヤは天井を見上げた。


「……何考えてんだよ、俺」


 ひとりごちる。

 ふたたび点灯した光源に真正面から照らされて、思わず眩しくて眼を閉じた。


 しばらくして眼を開けると、また電気が消えそうにちらついている。


 ゆるやかに明滅を繰り返しながら、いつか完全に絶えることになるそれが、まるでソーヤの命の灯のように思えてならなかった。

 ああけれど、電球なら新しいものに取り換えられるのに。


 ソーヤに代替するための部品は、ない。



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