data_075:揺れるともしび①

 短い言葉とともに向けられた背中を見て、ヒナトは叫びたいような衝動にかられる。


 ソーヤと離れたくない。

 ほんとうに明日の朝、ちゃんと会えるのかどうか、今は確信が持てないから。


 フーシャが亡くなったのは倒れてから五日だ。

 たった五日で死んでしまうのだ。

 こんな状況で、もう一秒たりとも安心なんてできやしない。


「……ソーヤさん!」


 ついに耐えきれなくなって名前を呼んだ。

 けれどその声は、分厚い扉に遮られて、その背中にはもう届かなかった。


 思わず開閉ボタンを叩くように押し、開き始めた扉をさらにこじ開けるようにして、転びそうになりながら廊下に躍り出る。

 個室がエレベーターに近いらしいワタリの姿はすでになく、振り向いたのはソーヤひとりだった。

 ヒナトはそのままもつれそうな足を無理やりに動かして彼の元へ走る。


 袖を掴む。襟に触れる。

 そこにソーヤがいることを確かめる。


「おい、ヒナ──」


 ソーヤは唖然としていたが、ヒナトが泣いているのに気付いて黙り込んだ。



・・・・+



 他にどうしようもなかったからだ、と、自分に言い聞かせている。

 紛れもない事実なのに、どこか言い訳じみて聞こえるのはなぜだろうか。


 背には扉の硬い感触、目の前ではヒヨコのような金茶の頭が小刻みに揺れていて、その先には見慣れた自分の部屋が広がっている。

 ヒナトはまだソーヤに縋りついたまま、押し殺した泣き声が耳に痛い。

 当分泣き止みそうにはないので、ソーヤは諦めて、秘書を抱きしめる腕に力を込めた。


 どうしてこんなことになったのか、ソーヤ自身よくわかっていない。


 コータをガーデンに送っていった帰り、フーシャのことで、ヒナトのみならず第一班の面子が気落ちしていたのは確かな事実だ。

 ある意味当事者でもあるソーヤとて、今夜は物思いに沈むことになると予想していた。


 GH以降のソアの宿舎は男女で階が分けられていて、ヒナトとはエレベーターで別れたはずだった。

 ソーヤとワタリの部屋は五階にあり、ヒナトはたしか三階だ。

 ところがヒナトはなぜかエレベーターを降り、すでに自室に向かって廊下を歩いていたソーヤの背中に突進してきたのだ。


 それ自体にも驚いたが、ヒナトが我を忘れたように号泣していたので放ってはおけず、かといってそのまま廊下で立ち竦んでいるわけにもいかず、ソーヤは彼女の手を掴んで自室に引き入れたのだった。


 こんな状況を、誰かに見られるわけにはいかなかった。

 とくにタニラには。


「……ヒナ」


 名前を呼ぶと、ヒナトは何か答えようとしたようで、しかしくぐもった呻き声しか返ってはこなかった。

 さっきからずっとこの調子だ。

 勝手にソーヤの胸に顔を埋めっぱなしで、泣き止むころにはシャツの色が変わってしまうのではないだろうか。


 そんなに誰かフーシャの死が辛いのか。


 思わず溜息を吐きながら、宥めるようにヒナトの頭を撫でる。

 主と同じく人の言うことをきかない癖っ毛を混ぜながら、ソーヤはぼんやりと、いつかの騒ぎを思い出していた。


 暴れるニノリを止めに行ったソーヤとワタリが怪我をしたとき、ヒナトはそれに対してやたらと怯えていた。

 ワタリが言うには彼女は感受性だか共感性だかが強いらしい。

 他人の痛みを自分のことのように受け取ってしまう──今回はたぶん、コータの悲しみに引きずられているのだろう。


 処置室でのコータの悲嘆は凄まじかったから、それを見たヒナトがこうなるのも無理はないのかもしれない。

 あるいはフーシャの遺体という生々しいものを目の当たりにして、ヒナトの中で、死に対する恐怖感が膨れ上がってしまったか。


 いずれにせよヒナトのキャパシティはもう限界なのだ。


 もともと小柄な身体をいっそう縮こまらせてソーヤの腕の中で震える彼女を見下ろしながら、しかしソーヤの内側には、何か黒々とした感情が芽吹いていた。

 なぜだかそれは、安堵に似ていた。


 ──俺でよかった。


 そう、思うのだ。

 前後を失ったヒナトがこうして縋る相手として、いつも宥め役をしていたワタリでなく自分を選んだことを、ソーヤは秘かに悦んでいた。


 撫でるのをやめ、肩を軽く押す。

 それに気づいたヒナトが目線だけこちらに向けようとしたのを、彼女の耳の下に手を差し込んで、顔を上げるように促した。

 どろどろにぬかるんだうぐいす色の瞳に、ソーヤの顔が歪んで映り込んでいる。


 どうだろう。

 実際、今のソーヤは顔を歪めているかもしれない。


「ヒナ」

「……ソーヤさん……あの、あたし……ッ」


 まだまだ涙を滲ませて、たぶん謝ろうとしたらしいくちびるを、ソーヤはそっと指で制する。

 そんな言葉は聞きたくない。

 それよりもっと欲しい言葉が別にある。


「……もしもの話だけどよ。俺が……」


 言いかけて、しかしその先を口にするのが急に恐ろしくなる。

 ヒナトが不思議そうにこちらを見上げている、その泣き腫らして真っ赤な顔が、濡れた瞳が、まだ理性にしがみついていたソーヤの思考をじりじりと炙るようだった。



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