静寂の終わり、雑音の始まり

data_067:異変

 朝から号泣していたという実習生は、今は落ち着いて簡単な作業を進めている。

 したがって今日も第二班オフィスはつつがなく静寂に包まれていた。


 キーボードを打つ音だけが室内に満ちていると、いっそのこと実習生の存在すら忘れそうになる。

 それではよくないという者もあろうが、正直なところ気が楽だと思ってしまうのも事実で、それくらいサイネにとって少女の存在は異質だった。

 これも一種の人見知りだろうかと、ひそかに自嘲してもいる。


 決してフーシャは問題児ではない。

 彼女の世話はタニラに一任しているが、当然投げっぱなしにはせず、サイネも班長として目を光らせている。


 実習生に適切な量と内容の課題が与えられているか。

 そして監督者──この場合は秘書が、実習生の扱いに困ってはいないか。

 同時に、そちらにはノータッチである副官が滞りなく通常業務をこなしているか。


 この部屋で起きうるすべては管理者たるサイネの責任になるのだ。

 事前に防げるトラブルなら起こさせないよう努め、それができずとも事態ことが大きくなる前に処分するに越したことはない。


 ちらりと横目でタニラたちを窺う。

 フーシャがこちらには聞き取れないほど小さな声で何かを尋ね、タニラも同じく小声でそれに答えている。

 彼女らがこちらに気を遣っているのは明らかで、別にそこまで静かにしなくてもいいんだけど、とサイネに先ほどまでとは矛盾した感情が去来した。


 なんにせよ問題は起きていない。ならば今のうちに他の仕事を進めよう。


 暗号化された情報に素早く眼を通し、手順通りの回答を送る。

 こうした作業の内容自体にはほとんど意味がない。

 ラボの人間が求めているのは閲覧から処理までの時間と回答傾向、ないし対応したソアが誰であるか──その微細なデータの蓄積だ。


 ガーデン時代にも、形は違えど能力値を測っているらしい検査は幾度も受けた。

 基本的にはその結果を元に現在の立場が与えられている。


 もっとも、ラボは当初ユウラを班長にする予定だった。

 それに対して彼がいかに人員管理業務に不向きであるかをサイネが熱弁し、同時にユウラが辞退したい旨を強く表明して、ふたりの立場が逆転することとなったのである。

 そのときすでにラボへの不信感はあったが、それをさらに強めることになった一件だった。


 ユウラの性格を考えれば彼が絶対に班長など務まらないのは明白だ。

 仮に無理やりやらせたところで、誰かが肩代わりすることになるのもまた自明の理。


 別にその代役がサイネである必要はないのだが、他に適当な者がいなかったため──でなければ三班の長をニノリにすることもなかったろう──こうして班長の座に就いている。

 サイネとて誰かの下で動くのは性に合わないから、構わないが。

 それにユウラの体質を考えるとこれが最適解だったのではないかとさえ思う。


 そして、今にして思えば、ラボに試されていたのかもしれない。

 サイネやユウラがどれくらい指示に従うか、あるいはどう抵抗し反論するかを見られていたのではないか。


 などと頭の片隅で考えながらも、サイネは休むことなくキーボードに指を躍らせる。


 自らに課した午前分のノルマのペース配分を考えると、あまり考えごとをしてもいられない……そう思った矢先のことだった。

 突然混じってきた雑音が思考を停滞させる──不穏な気配と、焦りの滲んだタニラの声。


「どうしたの? 大丈夫……?」


 すぐさま声のしたほうを見る。

 俯き加減になった少女と、その子を包むように肩を抱いている秘書の姿が目に飛び込んでくる。


「……きもちわるい……」

「戻しそう?」

「ん……」

「ちょっと待ってね、洗面器か何か……」


 取ってくるからそれまで我慢して、とタニラは言いかけたのだろうが、彼女と一緒にフーシャは立ち上がった。

 震える足で恐らくはトイレを目指そうとしたのだろう。

 だが数歩もいかないうちに、少女の小さな身体はずるずると冷たい床に崩れ落ちる。


 びちゃりと嫌な音がして、それからすぐに、つんと酸っぱい臭いが鼻腔を刺す。


「……ふぇ……ごめ、っ、なさい……ッ」

「ああっ……だ、大丈夫だからね。えっと、ティッシュと、雑巾……」

「それより早く医務部に連れていきなさい」


 サイネは声を上げ、隣のユウラの肩を叩く。


「歩かせないほうがよさそうだし、運んであげて。

 タニラは付き添い。掃除とか連絡なんかは私がやっておくから、その子を優先して」

「わかった」

「うん。……お口だけ拭こうね、こっちむいて」


 幸か不幸か、ブラウスはさほど汚さずに済んだ。着替えるのは医務部に着いてからでもいいだろう。


 三人は視線を交わし、そして迅速に対処した。



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