data_056:あと一歩がまだ遠い
「あー……の、えっと……」
もごもごと口を動かすものの、肝心の言葉が出てこない。
そもそもどう切り出すかを考えていなかった。
ヒナトのようすがおかしいのに気付いたエイワが不思議そうな顔をしてこちらを見る。
ああ、見れば見るほど善良そうな顔立ちだ。
今からこの顔が衝撃や悲しみで歪んでしまうことを思うとやるせないし、その責任をヒナトひとりで負うのは重すぎる。
──それでも。
これ以上このことでソーヤが思い悩んだり、苦しい誤魔化しを続けてしまうほうが、もっとずっと嫌なのだ。
もうあんなソーヤを見たくない。ヒナトの良く知る、いつもの──王様みたいな彼に戻ってほしい。
「ソーヤさんの、ことなんですけど……」
心臓がぎりぎりと締め付けられる。
言わなきゃいけないのに、そう思うのに、どうしても次の言葉が出てこない。
「?……ソーヤが何か」
「じ、実はその、ソーヤさんはびッ──」
やっと病気だと言いかけたところでやかんが吠えた。
甲高い音に思わずびくついて言葉が途切れ、ヒナトは少し肩を落としながら、とにかくそれを黙らせるために火を止める。
そのまま話に戻るべきだったかもしれないが、それでせっかく沸いた湯がまた温くなってしまっては手間だからと思ったヒナトはやかんを持ち上げる。
お湯を注いでコーヒーとココアを溶かし、茶葉を蒸らして、やかんを戻してスプーンの用意。
無言で作業を進めるヒナトをエイワがじっと見つめている。
止せばよかった、淹れてしまったら冷めないうちにオフィスに運ばなくてはいけなくなる。
そう気付いたのはお盆に飲みものを並べ始めてからだった。
どうしようとパニックになったヒナトは思わずカップ類から立ち上る湯気とエイワの顔を交互に眺めてしまう。
冷めちゃうといけないから、続きはまた今度にしますね──そんな言葉が脳裏にちらつき、ヒナトが逃げてどうするのだ、とかぶりを振った。
エイワは不思議そうにヒナトを見守っている。
そして、誰かが慌てふためいたようすで駆ける足音が、だんだんとこの給湯室に近づいてくるのが聞こえてきた。
そしてヒナトが話を再開する余裕もないまま数秒後、エイワの背後で扉が大きな音ともに開く。
「うおッ!?
……なんだアツキか、おまえでも廊下走ったりすんだなぁ」
ドア枠に手をかけ、肩で大きく息をしているアツキには、エイワの声に返事をする余裕もなさそうだった。
ヒナトも驚いて言葉が出ない。
いつも温厚でマイペースでのんびりしている、エイワの言うとおり廊下を走るなど一生無縁かと思われていた彼女が、息を切らすほど慌てるようなことがあるものだろうか。
尋常でないようすに、どことなく嫌な予感がしながらもヒナトはようやくアツキに声をかける。
すると彼女はそれでようやくこちらの存在に気が付いたようで、これまたすごい勢いで顔を上げたかと思うと、どこか怖がるような眼でヒナトを見た。
「ヒナ……ちゃん?」
「う、うん、あたしだけど……どうしたの? 大丈夫? なんか顔、真っ青だよ」
「……ああ……よかった……」
何がなにやら、ヒナトはアツキにそのままむぎゅうと抱きしめられた。
さっぱり意味がわからず固まるしかないヒナトだったが、アツキの身体はあったかくて柔らかくて、なんだかとても幸せな心地がした。
ていうか前から思ってはいたのだけど、やっぱり胸がでかい……。
しばらくしてアツキは呆然としているエイワや、お盆に並べられたコーヒーたちに気がついて、あわあわしながらヒナトを解放した。
「ごめんねぇ、ちょっとびっくりすることがあったからつい~。お茶冷めてるってソーくんが怒ったらうちのせいだって言っといて」
「え、うん、いやえと、大丈夫……何があったの?」
「あーっと……え、エイワくんにお茶汲み指導しなきゃだから、また今度話すね」
なんとも雑なはぐらかされかたをしたヒナトだったが、アツキは有無を言わさずヒナトにお盆を持たせ、速やかに給湯室から退出させた。
なぜだか逆らうことができなかったヒナトはぽかんとしたまま廊下に立ち尽くすはめになる。
エイワにソーヤのことを話すこともできなかった。
戻ろうかとも思ったが、しかし手許にどんどん温くなりつつあるコーヒーがあるのも事実。
それに思った以上に「真実を伝える作業」は難しい。
これは果たしてヒナトに改めてソーヤから怒られる覚悟が足りなかったのか、それとも別な要因がどこかにあるのか、なんにせよ出直したほうがよさそうだと自分でも思えるほどだった。
やっぱり終業後にソーヤを連れ出す方向で考え直そうか。
なんて考えながらとぼとぼ歩いてオフィスに戻ったヒナトは、なにか渋い顔をしたソーヤにすっかり冷めたコーヒーをお出しし、自分もぬるいココアを味わう羽目になったのだった。
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