data_053:はぐくまれるもの

 どんなに尽くされてもソーヤは絶対に記憶を取り戻すことができない。

 もう何度もラボに相談したが、絶望的だと言われている。


 あるいはこの脳に負った損傷を元通りにするような魔法があるのなら。


 アマランスは先天的な疾病を防ぐことはできても、後天的な瑕疵を癒すことはできないのだ。

 そのくせ意識に依らず強制細胞死を引き起こし望まぬ自死に至るという、他のどんな生物にも見られないような破滅的な遺伝病を抱えているなんて、どうしようもない欠陥技術ではないか。


「監視って表現はいただけないな。僕がしてるのは観察だ」


 ワタリはそう言って、それきり黙った。


 そしてソーヤも何か言い返すこともなく口を閉じた。

 これ以上ワタリと話しても何の助けにもならないし、基本的に彼はソーヤにとって都合の悪いことしか言わない。


 そこに善意も悪意もなく、ソーヤが見て見ぬふりをしているものを突き付けて、その反応を楽しみたいだけだ。


 言われなくてもわかっている。

 これ以上周りに要らぬ心配をかけるより、さっさと打ち明けてエイワにがっかりされるほうがいい。

 タニラの心痛も減るし、ヒナトが余計な気を回して事態を悪化させるおそれもなくなる。


 それに過去は取り戻せなくてもこれから信頼を積み直すことだって不可能ではない。

 GHの連中とも時間をかけて新しい関係を作ってきた。


 ただエイワがタニラと同じように『思い出』を大事にしていたらどうしよう、という不安が残っている。


 タニラはそれに縋ってすらいる。

 いつかソーヤが記憶を取り戻す日をひたすらに信じ、そのきっかけにならないかとあれこれ昔話を聞かせてくれたので、エイワの名前もすでに知ってはいた。


 親友だった、と聞いている。

 いちばん仲がよかった、何でも話していた、──私の知らないふたりだけの秘密もあったみたい、とタニラが言っていた。


 それが永遠に失われたことを知ったらエイワはどう思うのだろう。


 初めてGHの他の面子と顔を合わせたとき、誰もがソーヤの記憶障害のことを聞いてショックを受けていた。

 今でもたまに夢に見てうなされることがある程度には、ソーヤにとってもトラウマだった。


 あの日の、みんなの絶望と衝撃で泥のようになった瞳……あれをまた見る羽目になる。

 それが正直、怖いのだ。


 そして、そしてまたソーヤも打ちのめされて、そのとききっとまた傍にタニラがいる。


 タニラがソーヤを支えようとする。ソーヤの代わりに泣こうとする。

 ソーヤは彼女に何もしてやれないし何も返せないのに、タニラはそれを一言だって責めようとはしない。


 だから重い。


 行き場がないまま、膨れ上がっていく罪悪感が。




・・・・・*




「じゃあニノリん、お留守番よろしくね~」

「……ああ」


 めちゃくちゃ不機嫌な末っ子班長の声に見送られ、アツキとエイワは事務室を出た。


 今日が初日であるエイワに秘書の仕事を覚えてもらうため、彼が来てからアツキはずっと付きっきりであれこれ教えていたのだが、それがニノリには面白くないらしい。

 それをまだまだ甘えん坊さんだよね、などと言えるのもアツキくらいなものだろう。

 隣のエイワはすでに顔がひきつっていた。


「俺これから大丈夫かな……」

「んー? エイワくんは覚えるの早いほうだと思うよお?」

「や、そっちじゃなくて。なんかオフィス入ってからずっとニノリに睨まれてた気がすんだけど」

「あはは。人見知りがすごいよねえ。うちも最初は口きいてもらえなかったよー。

 そのうち慣れるから、猫ちゃんだと思って気長につきあってあげてね」


 いや、そういう問題でもなくて。


 と言いたいエイワと、根本的なところで問題を理解できていないアツキは、今は給湯室に向かっている。

 目的はもちろん、茶葉の場所ややかんの使いかたを覚えてもらうことだ。


 お茶汲みは毎日の業務なので早めに身につけてもらわなくてはならない。

 美味しく淹れられるようになるには経験が必要だし、あと班員の好みなんかも覚えてもらう必要があるので、習うなら早いほうがいい。


 そしてそれとは別に、慣れない新人の存在がニノリにとってはストレスなのでちょっとひとりになる時間を作ってあげよう、というのがアツキの考えだった。


 しかし廊下を三歩くらい進んだところでアツキははっとした。


 今はラボのほうも休憩どきで、給湯室や食堂に行く職員も少なくないので、人手が少なくなっているはず。

 奥に入り込んで調べるのには最適な時間帯ではないか。

 夜間は施錠もされてしまうしセンサー類の稼働数も増えるので、終業後はあまり好ましくないのだ。


「……そろそろ備品の補充しようと思ってたんだった。

 ごめんねエイワくん、ひとりで給湯室に行っててくれないかな? 資材倉庫のことは明日説明したげるから」

「え? でも俺、行ってもなんにもわかんねーんだけど」

「もちろんうちもあとから行くよー。

 ……あ、それに今の時間なら、タニちゃんがいるかもよ? 運がよければふたりっきりかも……」



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