data_052:そのまなざしに耐えられない

「……と、思ったんだけどなぁ……」


 かれこれ二時間ほど経過したところでヒナトは唸っていた。


 ソーヤを連れ出すうまい口実がちっとも思いつかないまま無駄に時間だけ浪費してしまったのだ。

 考えごとに熱中していたので、当然本来の仕事は進んでいない。


「何ボヤいてんだよ、働けコラ」

「あ。声に出ちゃってた……すいません」


 ヒナトが怒られる光景などとうに見慣れているだろうに、ワタリはくすくす笑っている。

 いったい何が面白いというのか。たまにワタリの笑いのツボがわからないこともあるんだよな、とヒナトは思った。


 が、しかし、次の瞬間、ソーヤがこっちを見ていることに気付いて固まる。


 見ていると一言で表現するにはあまりにも不穏な眼差しだった。

 擬音を付けるなら、ぎろり、とか、いやもっとねっとりした感じもあるから、じろじろ、でもいいかもしれない。

 とにかく気に食わないものを見るような眼で注視されていたのだ。


 思ったよりも班長様の怒りのレベルが高いことに気付いたヒナトは思わず背筋を伸ばし、そしていつもの逃げ口上をほとんど無意識のうちに発していた。


「お……お茶淹れてきます……」


 制止の声がなかったのをいいことにそのまま席を立つ。

 そしてすばやくドアに近寄る。


 やはり止められるようすはなかったので、本能が命じるまま大慌てで廊下に飛び出した。


 でもなぜだろう。

 ──そんなに怒られるようなこと、したっけ?


 仕事そっちのけで考えごとに集中してたのは確かに悪いが、それにしてもいつもと雰囲気が違った。

 そもそも本来ソーヤは眼で訴えるようなタイプではない。

 よくそんなに頭と舌が回るもんだなと思うくらい、ぽんぽんお小言が飛び出すのがいつもの彼だ。


 もしかしてソーヤのことで悩んでたのがバレたんだろうか。


 ありうる。

 これではたとえ上手い口実を思いついたとしても、すんなり連れ出されてくれなさそうだ。


 ヒナトは静かに肩を落とした。



 ・・・・・+



 挙動不審を丸出しにしながら出ていったヒナトを見送り、ソーヤは息を吐いた。


 秘書のようすが何かとアレなのはいつものことだ。

 良くないことだがそれが彼女の平常運転なのである、が、このところのヒナトの浮つきかたは、これまでの彼女とは少し趣が違っているように感じる。


 前までは単純に仕事にやる気が見いだせずにぼーっとしているだけだった。

 よそごとを考えているにしたって、その内容は明日のランチセットにつくデザートが何かを予想しているだとか、あるいは自分の業務がある日突然上手くいってソーヤやワタリに褒められることを夢想しているだとかの、まあくっだらない妄想でしかなかった。


 ……なんでそんなことを知ってるかって、何度か問い詰めて聞き出したことがあるからだが。


 さすがに白状するころには号泣しているので最近は詰問していない。

 ワタリに咎められるし、教育的な意味でもあまり良くないなとソーヤ自身でも思ったので。


 ともかく、それがソーヤから見た以前のヒナトの姿なのだ。


 それがここ数日は、彼女がほんとうに真剣に何ごとかを悩んでいて、それで仕事が手につかないというのが目に見えてわかる。

 で、その内容も聞くまでもない。


 なぜかって、ヒナトがときどきこっちを窺っているのを感じるし、なんなら漏れ出た小さな声が「ソーヤさんが……」だったりするからだ。

 わからないほうがどうかしている。


 それが回り回ってソーヤにとってもこのごろの悩みの種のひとつとなっていた。


 だから思わずでかい溜息をついてしまい、耳聡い副官が訳知り顔でこちらを見てくることになるのだ。


「……班員の相談に乗るのって、班長の務めじゃないかなあ?」

「うるせーよ。……素直に言うわけないだろ、俺相手に」

「よくご存じで。だったらさ、あの子が不安に思ってることを解決する方法だって知ってるよね」


 返事ができないソーヤを見つめながら、ワタリはさらに続ける。


「もう三班にエイワが来てる。ちょっと行って話してくる間ぐらい留守番してあげてもいいよ」

「……おまえ性格悪いよな」

「わかってて副官に選んだのはそっちだよ」

「たまに俺、おまえを監視してんだか、されてんだかわかんねえわ。……あとおまえに言われるまでもなく自分から言うつもりだっての。

 あんときはタニラがいたから……」


 その名前を口に出しただけでソーヤの頭がずんと重くなる。


 彼女が大切にしている思い出を、そのひとかけらも共有できないこんな己を、今でも一途に好いていてくれる健気な少女。

 タニラはいつでもソーヤの傍にいて、癒そうとしてくれる。

 ソーヤのために涙さえ流してくれる。


 その気持ちがありがたくて、しかし同時にどうしようもなく重いのだ。



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