data_046:過去からの来訪者②

 ややあって、エイワは噴出した。


「んっだよそれ!? ひでーな、俺はそんなに顔変わってねーだろ。背はまあ伸びたけど!」

「悪い。あー、と……いつ起きたんだ?」

「一週間ちょい前。で、ようやく杖なしで歩けるようになったんで今日は見学。

 しっかしまぁ、おまえとタニラが別の班になってるとは……でもって俺も再編成にならなきゃ三班だろうし、見事にばらばらになっちまうな。世の中思うようにいかないもんだ」

「……そうだな」


 ソーヤの浮かべる笑みがいびつで痛々しいことも、果たしてエイワは気付いているのかいないのか。


 少なくともこの日は何も追及することなく、そろそろ検査の時間だとかなんとか言って、エイワは慌ただしく出ていった。

 アツキたちも彼とともに去っていったので残ったのは班員だけになり、かといって男子ふたりがすぐに仕事に戻ったわけではないのは、コンソールの音が部屋のどこからも聞こえてこないのだから自明だった。


 ヒナトはドアがきちんと閉じたか確認してから室内に向き直る。


 そこにいるのは、気分の悪そうな顔で再び椅子に沈み込むソーヤと、それをじっと見つめるワタリの姿。


 ソーヤがこんなに小さく見えたことが今まであっただろうか。

 アマランス疾患の症状に苦しんでいるときですら、こんなふうにはならなかった。


 まるで嘔吐をこらえるように口許を手で覆って、やや俯きがちに彼が見つめているのは、何もない無機質なリノリウムの足元だ。


 そこに失くした記憶が転がっているはずもないのに、ソーヤの眼がうろうろと床の上を彷徨っている。


「ソーヤさん」


 かける言葉の持ち合わせもないまま、ヒナトはとりあえず彼の名前を呼ぶ。


 けれどソーヤは顔を上げない。

 傍まで行って、その肩に触れたものかヒナトがさんざんに思案しても、そのことにすら気付いていないふうだった。


「……下手に誤魔化すより、はっきり言ったほうがいいと思うよ」


 ワタリは静かにそう言って、それからデスクに向き直った。


 彼は知っているのだ。

 今のソーヤにあれこれ言ったところでまともに聞き入れはしない、そんな余裕が今のソーヤには欠片もないことを。

 だから自分の考えを簡潔に述べるだけに留め、あとはソーヤがもう少し落ち着くまでは、代わりに彼のぶんまで仕事を引き受けて放っておいたほうがいいのだと。


 副官の指がいつもの倍近い速さで盤上を走り回るのを、班長は呆然と眺めている。


 そして、どうしたって無力な秘書は、ようやく彼に手を伸ばす覚悟を決めた。

 恐る恐る差し出された指先が一瞬ジャケットに触れた瞬間、ソーヤはびくりと肩を跳ねさせてヒナトを見る。


 緋色のきれいな眼のふちがかすかに滲んでいるのを、ヒナトは極力見まいとした。


「ヒナ、……おまえ、誰から聞いた?」


 ソーヤはヒナトの首を締め上げるような声でそう問うた。

 言外に、なぜ知っているのかと責めているのだとヒナトにもわかった。


 咄嗟には返事ができない。

 言えば彼女まで責められはしないかと思ってしまったから。

 いや、それよりむしろ、自分だけが責められる可能性のほうがもっとずっとヒナトには恐ろしかった。


「……医務部、で……」

「嘘つくな。誰だ? タニラか? サイネか? それともそこのワタリか?」

「……さ、最初はタニラさん、です。そのあと個人的にサイネちゃんたちにも相談しました」

「たち?」

「お昼だったんで、アツキちゃんも一緒だったんです……」


 ヒナトは初めてソーヤの前から逃げたいと感じた。

 それくらい、このときのソーヤの声は棘に満ちて冷たいものだった。


 けれどヒナトが動かなかったのは、ソーヤがヒナトの手を痛いくらいの力で掴んでいたからでは、決してない。

 もし振りほどけたとしても逆に握り返したいとさえ思う。


 なぜなら今、怖くて辛いのはヒナトだけではないからだ。


 いちばん苦しんでいるのは、泣きそうな眼をしているソーヤに違いない。


「……余計な真似、すんじゃねえ」


 ソーヤはそう言ってヒナトを突っ張ねた。

 そう言いながらも手を放す気配は少しもないのが、その矛盾がまさしく今の彼の混乱と苦悩を表しているようだった。


 手が痛い。

 心も痛い。

 たぶんそれは、ソーヤも同じ。


「これは俺の問題で……、おまえには、関係、ねえんだよ」

「なくないです。だって、だってあたしはソーヤさんの秘書ですよ? スケジュールだけじゃなくって体調管理も仕事のうちだって、タニラさんが言って──」

「あいつの名前を出すな!」

「いッ……!」


 掴まれた手が一段と強い力で捻られて、ヒナトは思わず呻いた。


 それを見てハッとしたソーヤはようやく手を放し、その腕を、今度は横から伸びてきたワタリの手が掴み取る。


「そこまで。……しんどいからってヒナトちゃんに当たってどうするんだよ、バカ。

 ヒナトちゃん、手は大丈夫?」

「あ、はい、なんともないです……」

「ならよかった。で、ソーヤ、なにか言うことは?」



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