data_044:ソーヤの痛み、ヒナトの痛み
階段のところでサイネたちとは別れてオフィスに向かう。
扉越しに電気が点いていないのを見とめ、意外にも自分がいちばん早く戻ってきたのかと思ったヒナトだったが、ドアノブに手をかけたところでそうではないことに気付く。
声ともつかない音がしたのだ。
誰かの、静かにゆっくり、絞り出すようにして息を吐き出す気配だった。
決して正常な呼吸音ではない。
確信すると同時に、ヒナトは迷わず扉を開け放った。
薄暗いオフィスに廊下から差し込んだ光がそろりと忍び込んで、そこにいる人のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。
デスクの前で俯いているのは、予想はついたがやはりソーヤだった。
黒髪を手のひらで握りつぶして縮こまっている。
ヒナトが電灯のスイッチを押すと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……なんだ、ヒナか」
「なんだじゃないですよまた調子悪いんですか!?」
「いや、……ちっと早めに飯切り上げてきたから仮眠してただけだよ。心配すんな」
なんて下手な嘘だろうとヒナトですら思った。
ソーヤ自身もさすがにそう思ったのか、ばつが悪そうに眼をそらす。
「医務部行きましょう。あたし付き添います」
「いい……もうだいぶ落ち着いたんだ。それにまたヤバくなりそうだったら自分で行く」
「一回気絶したことある人が言ってもぜんぜん説得力ないんですけど」
「あんときゃ自分でもよくわかってなかったんだよ、けどもう五回目だぜ。さすがに慣れたっつの」
「……五回!?」
ちょっと待て。
ヒナトは決して回転の速くない頭を無理くり回して思い出してみたが、いちばん最初がココアを飲んでから倒れたあのときで、次は頭痛がすると言って医務室に送ったのが二度目。
それ以外でソーヤが体調を崩した記憶はない。
あと三回もいつどこで倒れたりしていたのだろう。
しかもヒナトに一切知らせずにとは!
険しい表情になったヒナトだが、逆にソーヤの顔色は良くなってきたようだった。
もしかするとこうやって、短時間だけ具合が悪くなるようなことが三回あって、そのときヒナトがその場に居合わせなかっただけなのかもしれない。
仕事時間以外に一緒に過ごしたことはないから、その間に。
それってつまり逆に考えて、ヒナトが知らないときに倒れてしまう可能性があるということだ。
そのとき周りに誰かいればいいが、例えば自室にいるときだったら?
一応プライベートエリアにもセンサーの類は設置されているというが、それがどれほどの感度なのか、異常に対してどれくらい早く対応してもらえるかはわからない。
ヒナトは青ざめ、やはり引きずってでも医務部に連れていくべきではないかと思った。
治療法がなくても、大した処置はしてもらえなくても、とりあえず報告は上げるべきだ。
「ソーヤさ──」
「あれ、珍しくふたりとも早いね。ただいま」
上げかけた声を遮るようにして背後のドアが開き、ワタリが入ってくる。
珍しく、というのはたいていいつもヒナトがいちばん遅いからだ。
「おまえが時間ギリなのも珍しいな」
「ああ、ちょっと職員に掴まっちゃってさー。それよりなんかあったの? ヒナトちゃんが怖い顔してるけど」
「大したこっちゃねーよ。ヒナも突っ立ってないで席につけ、時間厳守っていつも言ってんだろ」
でも、と言いかけたヒナトの顔を、ほっぺたを掴むようにしてソーヤの手が包んだ。
くちびるが突き出してたぶん今ヒナトはかなりブサイクになっているが、それどころではない。
思いのほか大きな手に顎をしっかり押さえられて声も出せない状態にされた挙句、ソーヤは口パクでこう言ってきた。
──誰にも言うなよ。
ワタリにも。
タニラにも。
他のソアや、ラボにいる人たちにも。
ソーヤは自分の身体の異常を大げさにしたくないというのだ。
なぜだろう。ひとりで抱えるのは辛くはないのだろうか。
不安を感じないのだろうか。
ああ、でも……。
やがて手は離されたけれど、ヒナトは黙って席に腰を下ろした。
思えばヒナトもそうだった。
サイネたちにソーヤのことを相談したとき、自分も発症しているかもしれないということは伏せた。
──怖いからだ。口に出したらもっとひどくなるような気がして。
ソーヤもそうなのかもしれない。
あるいは彼のことだから、
(やっぱりタニラさんを泣かせたくないのかな)
そう思うと胸の奥がつきりと痛んだ。
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