data_032:観察者かく語りき
指示を得たヒナトがぱたぱたと飛び出していくのを見送りながら、もういっそ内線かナースコールの設置も頼もうかなあとワタリがぼやく。
嫌味のつもりなのにソーヤからの返答はない。
そんなに辛いのかと、ワタリはそっと班長を見下ろした。
……ああ、ヒナトがいなくなったらすぐこれだ。デスクに突っ伏して小さく呻っている。
このあいだのプリン騒動でもそうだが、ヒナトはどうも他人の痛みにものすごく敏感であるらしい。
彼女の怯えかたはちょっとヒステリックにすぎる部分もあった。
ソーヤの殴られた頬をまともに見ることもできないほどに。
だから大して痛くないようなふりをして、心配をかけまいとしている、ソーヤの気持ちはわからないでもない。
多少なりと生来の恰好つけも手伝っているのだろう。
だが……それで対処が遅れて、ほんとうに不味い事態になったなら、そのときいちばん傷つくのもまたヒナトなのに。
ワタリは溜息をついて、不器用な男の肩を叩く。
ほんとうに歩くのが無理なら特別におんぶしてあげるけど、と言い添えると、ソーヤは勘弁してくれよと小さく答えた。
「てめーに負われて医務行きとか、いい笑いもんだぜ……」
「笑いごとで済むうちはいいんじゃないの。ほら、肩貸すから、がんばれ」
「……ヒナを頼む」
「わかってる」
また今日もヒナトは動揺してしまうかもしれない。
前回は見かねて医務部に行かせてやったが、それでソーヤが無理をして症状を悪化させかねないのなら、引き離したほうがいいだろうか。
業務についてはもうぜんぶワタリが請け負うつもりで、場合によっては他班の力も借りればいいし。
ま、仕事についてヒナトには良い意味で元から期待してはいないから、今さらだけれど。
それよりソーヤの状態が想像以上に芳しくないことのほうが問題だ。
もちろん、前から危惧してはいた。
彼が倒れるよりもずっとずっと前から。
なぜならワタリは知っている。
──永い長い眠りよりも前からずっと、──のことを、知っている。
ワタリの指示どおりエレベーターの前でソーヤは寝台に乗せられ、そのまま医務部へと運ばれていった。
ともかく鎮痛剤を打ってもらって、あとは徹底的に精密検査でも何でもして原因を突き止めてくれるよう頼み込むと、ワタリとヒナトは一班のオフィスに戻る。
もちろんヒナトはソーヤに付き添いたかった。
検査といっても何をするのかよくわからないが、大なり小なり心細いものではないだろうか?
もしもヒナトがソーヤの立場なら、誰か知っている人間が傍にいてくれたほうが、きっと遥かに安心して検査に臨めると思う。
しかしソーヤ自身にも戻るよう言われ、ワタリにも促されたとあっては拒むわけにはいかない。
こういうときヒナトは秘書という自分の弱い立場を恨む。
そして戻る道中、案の定というかタニラに出くわした。
一体どこで情報を手に入れてきたのか、前と同じく半泣きになっても決して不細工にはならない美少女は、ヒナトを見るなりぎっと睨んでくる。
これにはもはや慣れているヒナトより隣のワタリのほうがぎょっとしているのが、なんとなく顔を見なくても伝わってきた。
「……あなた、ほんとに、ソーヤくんの秘書だって自覚、あるの?」
そして予想され尽した常套句に、わかっていても少しかなりむっとしてしまうヒナトだったが、言い返す前に口を開いた人物がいた。
もちろんこの場に他にいないので、それはワタリだ。
「これはヒナトちゃんに責任を問う問題じゃあないんだよ。……きみも薄々はわかってるでしょ」
「……っ」
意外にもタニラは言い返さない。
いや、たぶん彼女が口撃できるのは基本的にヒナトだけなのだろう。
それにワタリは男の子で、しかも他の班の副官だから、GHにおいてもタニラより立場が上だ。
結局タニラが何か言うことはそれ以上なくて、彼女は医務部のほうへ歩き去っていった。
たぶん泣いていたと思う。
すすり泣く彼女の声が、遠くから聞こえるような気がした。
真っ白な廊下にふたりだけが残されて、なんだかとても広く感じる。
なんというか彼女が撃退されるところなど初めて見たヒナトは、思わずワタリのほうを振り返ってしまうが、そのとき彼は予想外の表情を浮かべていた。
しかも何と例えていいのかわからない、複雑な顔を。
悲しいような、寂しいような、それなのに笑っているような、呆れているような……。
もしかしたら口許しかないのでわからないのかもしれない。
生憎ヒナトがいたのは彼の右隣だったから、ちょうど眼帯で片眼さえ隠れてしまっていた。
「わ、ワタリさん、あの」
「いやあ、タニラちゃんってあんな顔するんだね。驚いた」
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