data_018:ヒナトの最終奥義
鈍い音が第三班オフィスに響く。
それを間近に聞いたヒナトは、さあっと身体の中に冷たいものが拡がるのを感じた。
……怖い。
ヒナトとあまり背丈の変わらない少年だと思って甘く見ていたのかもしれない。
どうにかなるだろうと思っていたはずなのに、中途半端に駆け寄った状態のまま、ヒナトの脚は動かない。
そうして何もできずにいたら、ソーヤがニノリを振り落とした。
続いて一発、小気味いい破裂音が聞こえた。
殴ったらしい。
ニノリがまた獣のような唸り声をあげる。
「……ソーヤさ、」
やめてください、と言おうとしていた、のだと思う。きっと。
しかしヒナトがはっきりそう口にする前に、背後で扉が開いた気配がした。
ワタリの声もする。見つけたよ、と言ったように聞こえた。
ソーヤが投げろと指示を出し、ワタリは言われたとおりにしたようだ。
眼の前を飛んでいく黄色い物体は間違いなくまだ封の切られていないプリンだった。
「おいニノリ! 御所望のブツだ!」
ところが肝心のニノリはまだ興奮していて、飛んできたものがプリンだということに気づいていないらしい。
投げ返されたそれはヒナトの足許に叩きつけられた。
プラスチックの容れもののなかで、柔い黄色が振動で少し崩れてしまった。
ヒナトはそれを手に取った。
遠くでソーヤのいらだった声が聞こえる。殴り返されたらしい。
顔を上げるとニノリとソーヤが取っ組み合いしている。
離れた場所には殴られた肩を抑えてうずくまるアツキがいて、いつの間にかワタリが駆け寄っていた。
何か声をかけているが聞こえない。
ふいにワタリがこちらを向いて、プリンを、と言った。
「ヒナトちゃん、もう一回プリンを投げて!」
「……それじゃ埒があかねぇよ! ワタリ、こいつの脚を押さえろ!
ヒナはラボに行って、職員に事情を説明してそれで、麻酔かなんかもらってくるんだ!」
ソーヤの言葉に、アツキが伏せていた顔を上げた。
……泣いている。
「そんなことしないで」
「つったってアツキ、こいつはそうでもしねぇと止まんねーぞ!」
「で、でも、……麻酔は絶対にだめだよ……! だってソーくんも、知ってるでしょ、私たちの身体には」
「他に方法がねぇんだよ!」
ニノリと殴り合いながらのソーヤの怒号に、アツキはびくりと身体を震わせる。
そしてちらりとヒナトのほうを見た。
牡丹色の瞳いっぱいに涙を溜めて、けれども彼女は、何も言わない。
言わないけれどもヒナトにはその意味がわかった。
麻酔を持ってくるなと、そういうことだろう。
どうして麻酔がいけないのかはヒナトには思い出せなかったが、アツキの真剣な感情は伝わってくる。
じゃあ、他に、どうやってニノリを止めればいい?
悩んでいるときの癖で、ヒナトは手許をごそごそやった。
……プリンを持っている。
そうだ、さっき拾ったのだった。
もしかして、とヒナトは独りごちる。
このプリンは未開封。感触は冷たくて硬い。
だからニノリはこれがプリンだとわからなかったのかもしれない。
──アツキの意に反して麻酔を取ってくる前に、一度試してみる価値はあるかもしれない。
「ソーヤさん、もうちょっと押さえててください!」
「ヒナ!?」
「ワタリさんはどうにかしてニノリくんの口を開けさせて!」
「……なんか急に無茶ぶりかましてきたね?」
手許でべりべりと気持ちのいい音がする。
ヒナトはそれをしっかと掴み、ソーヤに抑えつけられているニノリの許へ走った。
ワタリは困ったようにニノリの顎を抑えていて、開いているのはわずかに一センチほど。
しかもニノリが暴れ回ったせいで、きっとコーヒーや紅茶に添えられていたであろうスプーンも見当たらないので、ここは即席でやるしかない。
ヒナト最終奥義、プリンの蓋で簡易スプーンを作るの巻!
「くらえ!」
謎の掛け声とともにヒナトはプリン(さっき叩きつけられて崩れた残骸)をニノリの口に流し込んだ。
文字どおり食らわせてやったわけだ。
んぐ、とニノリが呻く。ワタリはそこですぐさま手を離した。
「ソーヤも離したげてよ。窒息しちゃうだろ」
「お、おう」
恐るおそるといった感じながらソーヤが腕を離しても、ニノリはもうぴくりとも動かなかった。
無表情のまま、しばらくもごもごと口を動かしていたかと思うと、芝生色をした両眼から幾筋も透明なものを溢れさせた。
どうやらやっと落ち着いたらしい。
ほっとしてヒナトが声をかけようとした瞬間、彼はむっくりと起きあがった。
ヒナトは驚いて黙り込んでしまったが、その手にあるプリンを見たニノリは、プリンとヒナトを交互に見た。
何が起きたのか彼自身にもわかっていないらしかった。
次に眼をやったのは自分の両腕で、やはりかなり傷むようだ。
それからきょろきょろとあたりを見回したニノリは、アツキを見つけた。
頬を真っ赤に腫らしたアツキは、ニノリが落ち着いたのを見て、嬉しそうににこにこしている。
「あ、……アツキ、それ……おれが?」
やったのか、と掠れた声でニノリは尋ねる。
アツキは笑ったまま平気だよと言った。
どうみても平気じゃないはずなのに、眼はまだ充血したままで、それでもアツキの微笑みは少しも崩れることがない。
ニノリはアツキに駆け寄って、ごめん、と必死に謝り始めた。
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