data_011:ネコ目ネコ科の女王様
ヒナトが棚の整理を頼まれてから、もう三十分以上が経過した。
ちなみにこの棚を占拠している大量のファイルたちの中身は、それぞれ紙やディスクの形をしているが、どれも花園のデータのバックアップだ。
いちおう中を見ずとも分類できるようにラベリングされてはいるものの、ヒナトには暗号文にしか見えない。
どうしてここではなんでもかんでもアルファベットと数字だけで構成されているのだろう。
それでも今までの経験をフル動員して、どうにかこうにかあたりをつける。
ヒナトだっていちおうはここで十数年生きてきたのだ。
しかしながら量が量なので、いつまで経っても終わらないんじゃないか……と感じてしまう。
「そういえば、一班の棚もこんななってたっけ?」
はて。
ふと思って記憶を辿ってみても、ここと同じくらいの数のファイルがあるはずの棚が、こうしてぎゅうぎゅうに詰まっている光景は思い出せない。
でもヒナトは秘書のくせに棚を整理した覚えがなかった。
ということは、一班の誰かが代わりに整理をしてくれているということになるのだが……。
──はっ!
ヒナトは無意識に身体がぎくりと固まるのを感じた。
背後に冷たい視線を感じる。
もちろんそれが誰かなんてことは、ヒナトには考えずともわかるのだった。
タニラだ。
なんだかもう、このダメ秘書が……という呪いの声さえ聞こえる気がする。
ヒナトは一瞬身震いしてから、それでもまとわりついてくる(ような気がする)タニラの怨念を振り払うように、できるだけ作業スピードを上げた。
なにかひとつ区切りをつけないと。
後ろの怖いお姉さんのことは極力考えないで!
そいやっ、と元気の出そうな掛け声をつけてファイルを突っ込む。
「よ、よーし、一段目終わりー!」
「あらぁ、まだ一段しか終わってないのね、ご苦労さま」
……この嫌み秘書め。
でもここでまた喧嘩して、サイネあたりからソーヤに漏れたら面倒だから、耐える。
幸いタニラもそれ以上の挑発はしてこなかったので、比較的落ち着いて作業を続けることができた。
なおそこにサイネの監視の目があったことをヒナトは知らない。
班長もふたりの仲の悪さには辟易していたのである。
さすがのタニラも自分の上司であるサイネに逆らう気はないようだ。
「……仕事に私情をはさむなよ」
珍しくユウラが独り言なんて言っている。
そして彼の小さな呟きが聞きとれる程度には、二班のオフィスは静かになっていた。
ヒナトがファイルの束を落っことしたり、うっかり棚を崩落させたりしたこと以外には、とくに問題も事件もなかったのだ。
キーボードを叩く音が、薄い緑色をしたオフィスの壁に反響している。
ちなみに壁の色はオフィスによって異なるらしい。
ソーヤ率いる一班では彩度の低い水色で、扉と平行になった壁にだけ白いラインが一本入っている。
二班では同じくラインが二本。
ということは、アツキのいる三班もまた淡色の壁に三本のラインが入っているのだろう、と予想できる。
ヒナトは入ったことがないので壁の色までは知らない。
なおその三班のオフィスは二班と同じ階ですぐ隣接しているのだが、壁に防音機能でもついているのか、とくに物音などは聞こえてこなかった。
電子音が軽やかなワルツを奏でる。確認を促すランプの点滅。
回転椅子の軋む音。
へっくちっ、と誰かのちょっとかわいいくしゃみ。
カップをソーサーに戻すかちりという音。
それは楚々として穏やかな仕事風景。
ヒナトはファイル整理がもうひと段落したのを機に、しばし手を止めて少しだけそれを楽しむことにした。
一班ではこんな空気で仕事をすることなどまずないからだ。
よく言えば和気あいあい、あえて悪く言えばだれてしまいがちなのである。
悔しいが、羨ましい。
この空気が生まれるのはタニラが優秀だからだということが、見ているだけでヒナトにもわかる。
やっぱり二班は恰好いい──そうヒナトが思ったそのときだった。
「ちょっと、これ何?」
怪訝そうな声を出したのはサイネ。
彼女が画面上に見ているのは、部下ふたりから送られてきた処理済みデータだ。
どうやらここでは班長が逐一チェックする体制をしいているらしい。
一班ではどうやっているのかは、やはりダメ秘書なヒナトのあずかり知らぬところである。
「どうかしたの?」
「こっちのB群の処理プロセス、おかしいんじゃない? これやったの誰?」
「Bなら俺だが」
ユウラが椅子を回してサイネに向き合う。
どうでもいいがヒナトは今日ユウラを正面から見たのはこのときが初めてだった。
わりと端整な顔立ちをしている。
「この方法で問題はないはずだろう」
「結果じゃない。合理的じゃないからやめろっていってんの」
「タイムロスは出さなかったが」
「私が気に入らないから嫌」
サイネは一歩も譲る気はないらしく仁王立ちで答える。
しかし理由があれである。
対するユウラもまた、相変わらずの無表情ながらわずかに口調を強めていた。
いかにもめんどくさそうな組み合わせの対立に、タニラもそして思わずヒナトも、おろおろとしながらふたりの間に入ろうとした。
さっきと状況が真逆だ。
しかし対立に至った経緯も内容もよくわかっていない(状況からして仕事の方法か何か?)ヒナトには、この仲裁はお茶くみよりも高難易度である。
そうこうしている間もふたりはああだこうだと言い合っている。
ヒナトたちの喧嘩と違うのは、ふたりとも語気を荒げたりはしていない点だ。
いや、後半になるにつれてサイネのほうはややヒートアップしつつある。
ユウラは落ち着いているというのか、はたまた憮然としているのか、その表情から読みとるのは難しい。
「まあまあふたりとも、そんなのどっちでもいいんじゃないかなぁ……ね?」
「よくないから話し合いになるんだ」
「ていうかヒナトに言われても」
ひどいです。そのとおりだけどひどいです。
「とりあえず今はどっちかが妥協したらどうかな? 話し合いは後にして」
「……腑に落ちないな」
「私は嫌。じゃあ聞くけどタニラはこういうやりかたどう思うの」
「えっ……あ、えーと……」
ちらりとヒナトを見たところから察するに、タニラもどうやらどちらでもいい派だったようで、返答に詰まっている。
大方ヒナトと同じだとは言いたくないのだろう。
そういうところでつまらないプライドを発揮してしまうタニラは、ヒナトとしても尊敬できない。
もともと尊敬はしても好きにはなれないけど。
仕事の出来不出来と性格の良しあしはまた別の話である、と思う。
とにかく仲裁役としてはヒナトもタニラもかなり力不足だった。
しかし。
そもそも、サイネとユウラにはそんな役は必要ないのだということを、ヒナトは思い知ることになる。
いや、なった。
今まさしく眼の前で。
「……わかった、五分くれ」
なんのことはない。
議論開始から十分もしないうちにユウラのほうがあっさり折れてくれたのである。
サイネは当然でしょと言わんばかりのようすで、早くしなさいよ、とだけ言った。
嫌み秘書とかもうそんなレベルではなかった。
きわめて高圧的、かつ絶対的な権力。
それを助長するかのように輝く黄金の双眸は苛烈で、しなやか。
まるで猫科の猛獣のよう。
いや、女王と呼ぶべきか。
つまりここは、専制君主制の女王様が統治する国だったのだ。
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