data_006:班長と秘書のトライアングル
とにかく火を消し元栓を閉めて、やかんを流しに移し、台拭きを手にとって、びしょ濡れになったテーブルをぬぐおうとした。
そこでまた手が震えた。
どうしよう。
もしかしたらヒナトは、ソーヤがいないと仕事ができないのかもしれない。
もともとぜんぜんできないけど、もっとダメな秘書になってしまうのかもしれない。
むしろ今現在進行形でなっている気がする。
なにせソーヤがいなければコーヒーを淹れる練習もできないし、分別する仕事だって意味がなくなってしまうし、かといって他の仕事をしようにも能力が足りなすぎる。
「うう」
泣きたい。
泣きたいけど、ここで泣いてはいけない。
これ以上足手まといになるわけにはいかないから、だから、泣いたらだめだ。
思えば思うほど、苦しさが喉許にこみ上げてくる。
どうしよう、どうしよう。
どうしようもない。
台拭きを握りしめて立ち尽くしていると、背後で給湯室の引き戸を開ける音がした。
「あれま。随分おそいなーと思ったら」
「ワ、タリさん」
そこに立っていたのは、呆れたような顔をしているワタリだった。
ヒナトが出て行ったきりもう三十分近く戻ってこないので見にきたらしい。
「どうもヒナトちゃんは仕事が手につかないみたいだね?」
「ごめんなさい、あの、あたし」
「言い訳はけっこう。……なにもサボってたとは思ってないよ。
ただ、この調子でこのあともいる気なら、いっそソーヤの看病しておいで」
突き離すような声音だった。
叱られているんだ、とヒナトは思った。
これはつまり、浮ついて仕事にならないのなら邪魔だ、と言われているのだ。
ヒナトが言葉に詰まっていると、仕事は僕がどーにかしとくよ、と言って、ワタリはすたすたと給湯室から出ていった。
ほんとうに言い訳どころか話さえ聞く気がないらしい。
呆れられたんだ。
ヒナトは愕然とした。
最悪の状況でひとりきりになってしまった。
ここでオフィスに戻っても、きっと同じことの繰り返しだろう。
ならばたしかに、ワタリの言うとおりにソーヤのところへ行って、そこで少しでも心を落ち着かせたほうがいいかもしれない。
後片付けを済ませてから、階段を上った。
途中、一班のオフィスから漏れる明かりが見えた。コンピュータの動く音もする。
そこでワタリが三人分の仕事をしているのを思うと、息が詰まった。
(ごめんなさい)
心の中でもう一度謝って、また階段に足をかけた。
・・・・・*
医務部につくと、なぜかそこにはタニラがいた。
ハンカチで顔を押さえて俯いているので、最初はどこか具合でも悪いのかと思った(そして何か伝染病でも流行っているのかとも思った)が、ヒナトの足音に顔を上げた彼女は泣いていた。
そして例のごとくヒナトを見とめた瞬間から般若へと変わった。
「あなた」
しかも声をかけられた。
いつも無視されているから、彼女と会話するのは数週間ぶりくらいになる。
「あなたはいったい、何をやってるのよ!」
そうしてタニラは強い口調でヒナトを叱責し始めた。
曰く、班長の体調管理も秘書の仕事だ、どうしてソーヤが倒れるまで何もしなかったのだ、突然倒れるわけがないのだからきっと前兆か何かあったはずだ、どうしてそれを見逃した、そのうえソーヤが倒れたというのに呑気に仕事に戻った、しかも中途半端に切り上げて今ごろやってきたのはどういうつもりだ、などなど。
ヒナトは何も答えられなかった。
タニラの言うとおりだと思った。
でも、それでもどうしても腹が立ったので、ひとつだけ言い返すことにした。
「たしかにソーヤさんの秘書はあたしです。今回はあたしのミスだと思います」
「そうでしょう!」
「じゃあタニラさんは? タニラさんは二班の秘書で、ソーヤさんの秘書じゃない。
なのにどうしてここにいるんですか? お仕事しなくていいんですか」
「そ、れは……あなたには関係ないでしょ。ちゃんと許可ももらってるんだから」
「関係あります、ソーヤさんの秘書はあたしなんですから!」
ヒナトの切り返しにタニラもうっと言葉を詰まらせる。
当然だ。
他の班の秘書であるタニラがここにいる理由など、何もないはずなのだから。
何の許可をもらってきたというのだ。
威嚇するように睨みつける。
しかしタニラも負けてはおらず、きっと睨み返してくる。
こういうときも美人のほうに分があるように思えて、ついでにヒナトの眉間にしわが増えた気がした。
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