data_005:ソーヤの問題、ヒナトの問題
医務部のベッドに横たわるソーヤの顔には血の気がなく、ヒナトには何かの病気なのではないかと思えてならなかった。
ソアが病気になるという話は聞いたことがなかったが、しかしそうでなければ、仕事中に突然倒れるなんてことがあるのだろうか。
応対してくれた若い医務部員によれば、簡単な検査ではまだ原因が特定できないらしい。
精密検査の準備をしている間見ていてほしいと言われたので、ヒナトは一旦仕事をワタリに任せ、ベッドの傍にあったパイプ椅子に座った。
それから何度かソーヤに話しかけてみたが、やはり反応はない。
……まるで死んでしまったみたい。
嫌な発想に、胸の奥がぎゅうと掴まれたような気がした。
縁起でもない。
丈夫になるよう遺伝子操作されているはずなのに、そう簡単に死ぬわけがないのに。
もしソーヤが死んでしまったら、これから一班の仕事を誰がするというのだ。
ワタリとヒナトだけでは手が回らないだろう。
ソーヤの分まで仕事をこなすには、ヒナトには頭脳も体力もなにもかも足りない。
それに、ヒナトは誰のために、まともなブラックコーヒーを淹れる練習をすればいい?
「う」
さっきから鼻が痛い。
いや、鼻だけじゃなくて身体じゅうが痛い気もする。
泣きそうになってきたのをどうにかこうにか堪えていると、さっきの医務部員が戻ってきた。
検査の準備ができたらしい。
ソーヤはキャスターつきのベッドに寝かされていたので、そのまま検査室へと運ばれていく。
ヒナトはそれを見送ってから、オフィスに戻った。
当たり前の話だがオフィスではワタリがひとりで仕事をしていた。
いつもガキ大将がふんぞり返っている中央の椅子は、今はからっぽだ。
それを改めて確認するのが辛かった。
ワタリとヒナトとの、互いの椅子の間にこれほどの距離があったことも初めて気がついた。
おかえり、と優しい声でワタリが言う。
「どうだった」
「原因がよくわからないんで、今から精密検査です」
「そっか」
「まさかあたしのココアが甘すぎて気絶した、なーんてことは、ないですよ、ね……」
「はは、ありそう。
……じゃ、仕事しようか。少しは進めないと、あいつが戻ってきたら絶対あほみたいに文句垂れるだろうからさ」
精一杯の冗談も声が震えてしまう。
それでもワタリがちゃんといつもどおりの返事をしてくれるので、ヒナトは少しだけほっとした。
そうだ、仕事に戻ろう。
きっとソーヤは元気になって帰ってくる。そうに決まっている。
戻ってきたら、いつものようにヒナトをいじめて、コーヒーがまずいのなんのと難癖とつけてくるに違いない。
コンピュータに向きなおって、待機中の表示をした画面をタッチする。
医務部に行っている間に作業ボックスにはたくさんのファイルが溜まっていた。
この中にはラボや他の班から送られてきたデータが入っていて、ヒナトはそれを分別して上官ふたりに送るのだ。
相変わらず簡単な仕事だ。
しかも今日はソーヤがいないわけだから、どうせほとんどワタリが処理することになる。
手が止まった。
仕事なんて、ないじゃないか。
ヒナトはなんのためにここにいるんだ。
こうしてこの秘書の椅子に座っている必要なんて、どこにもないじゃないか。
「あ、あたし、お茶淹れてきますね」
そう言って立ち上がる。
ワタリの返事を聞く前に部屋を飛び出す。
自分でもなぜパニックに陥っているのかはわからなかったが、とにかくあのままただ座っているのが嫌だった。
何かもっと仕事らしい仕事をしなければ。
お茶酌みでもなんでもいい、とにかく何か、役に立てるようなことをしなければ。
給湯室は無人だった。
湯を沸かしながら、棚を探る。
紅茶は失敗するかもしれないからココア。
……いやだめだ、あんなことがあった後なのに。
じゃあ、コーヒー?
……それもだめだ、飲む人がいない。
ヒナトはもちろんワタリもほとんどコーヒーを飲まない。
唯一コーヒーを愛飲しているソーヤは、オフィスにいない。
また手が止まった。
だめだ。ここでも仕事ができない。
(とにかく、ワタリさんのだけでも淹れないと……下手だけど紅茶でいいよね)
棚の上段からリーフティーの缶を適当に引っ張り出す。
ポットに眼分量で茶葉を入れて、既に湯気を上げ始めているやかんをとった。
お湯を注いでいれるだけ、手順はそれほど複雑ではないのにどうしていつも失敗しているのだろう──。
「うあ、っつ!」
考えごとをしていたせいか、手許が狂った。
熱湯はポットの中ではなく、側面に勢いよくぶちまけられ、跳ねた水滴がヒナトのところまで飛んできたのだ。
驚いて咄嗟にやかんをテーブルに置いた。
キュロットの下にむき出しだったヒナトの脚に、こぼした湯がぼたぼたと垂れてくる。
火傷したかもしれない。
でも、それよりまた失態をしたことのほうが切ない。
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