data_004:緊急事態
軽くすったもんだしたのち、やっとヒナトの長い朝食が終わろうとしていた。
それなのに今度はソーヤの向かいの席に銀色のトレーがつっこんできて、何ごとかとふたりが顔を上げると、そこにはもの凄い表情でヒナトを睨みつけている少女がいたのだからたまったものではない。
これがまた美人なものだから、憤怒に震える姿は般若そのものである。
が、コンマ一秒にして彼女は本来の麗しい微笑を取り戻し、それを余すところなくソーヤに向けた。
ヒナトなど眼中にないと言わんばかりである。
「おはよう、ソーヤくん。今から朝ごはんなの?」
「あ、ああ……はよ、タニラ」
「おはようございますタニラさん」
「ソーヤくんは今日も会議があるんだよね。班長さん、がんばってね」
その証拠に今も華麗に無視された。
ちらりともヒナトを見なかった。いっそすがすがしい。
彼女の名前はタニラ。
二班の秘書をしていて、何度も言うがオフィスで働くソアたち──ちなみにこの階層はグラスハウスとかグリーンハウス(GH)と呼ばれている──の中でもとびぬけて容姿に恵まれている。
清楚なロングのプラチナブロンドに、同色の長い睫毛で覆われた瞳は北の海を思わせる深く澄んだ群青色で、黙っていれば女神さまと呼びたくなるほどだ。
ただ、ご覧のように、ヒナトに大してはなぜか敵愾心むき出しなのである。
しかもどう考えてもその原因が思い当たらないのでヒナトは困っている。
一体ヒナトが何をしたというのだろう。
「っと、ヒナはもう食い終ったんだろ? 先にオフィスに行ってな」
「……わ、かりました、じゃあ後で」
そのうえソーヤはソーヤでタニラに甘いのでたちが悪い。
仲がいいらしい。
いちおうは美男美女だからか、一緒にいると絵になるのもなんだか癪に障る。
ヒナトは逃げるように食卓を後にした。
かまってなどいられない。
背後でタニラが勝ち誇ったように笑っていることだって、振り返らずともわかっている。
・・・・・+
嫌な気分を引きずったまま仕事をするのは嫌だったので、ヒナトはさらに甘くしたミルクたっぷりココアを作った。
カルシウムを摂ればたぶんなんとかなる。あときちんと歯磨きをすればいい。
ついでにソーヤとワタリの分も嫌がらせ半分に用意してやった。
が、ワタリにはあまり効果がなかったようで美味しそうに飲んでいる。
もっとも苦しませたところで八つ当たりでしかないが。
「たまに飲むと美味しいよね、ヒナトちゃんのココア。甘あぁいのが欲しいときはいいかも」
「ですよね! 私のココアは美味しいですよね!」
「あははお茶もこれくらい頑張ってくれると嬉しいなあ」
……笑顔なのに怖いのはなぜだろう。眼帯だから、ではなさそうだ。
一方でソーヤは何も言わずに震えている。
そんなに美味しかったのかな、そんなまさか、と都合のいい想像をしてしまうヒナトであったが、もちろんそんなことはなかった。
「ぅあめぇ……」
見よ、この苦悶の表情を。
「ヒナてめえ俺様が甘いの苦手なこと知っててやってんだろ……まじ歯が溶ける……!」
「もう、そんなに嫌なら残していいですよう」
ソーヤはぷるぷる震えながらも、残すのは勿体ないとか言ってココアを口に流し込む。
そして甘さに耐えきれず呻く。
という作業を、かれこれ五分ほど繰り返していた。
律儀なんだか、ケチなんだか……。
見ているのも面倒になってきたヒナトは、ソーヤを放っといて仕事にかかった。
じつはなんだかんだできっちり仕事をしていたワタリから、処理を済ませたデータを受け取って、わかる範囲で分類して、必要があれば他の班に送る。たったそれだけ。
いつもながらヒナトの仕事はソーヤたちのそれに比べてシンプルすぎる。
しかもしょっちゅう足を引っ張るのだから、まさしく役立たずだ。
(あたしって、ここにいる意味あるのかな)
ふと思う。
ふつうのニンゲンより優秀なはずの、アマランスの芽である自分たち。
そのなかでヒナトは、明らかにふつうの……いや、ふつう以下の能力しかない。
ほんとうに自分も、ソーヤたちと同じソアなんだろうか。
もしかしたらヒナトだけ──
「ソーヤ?」
ヒナトの思考を遮るように、オフィスに鈍い音が響いた。
続くワタリの焦ったような声にはっとしてそちらを向く。
うぐいす色の眼に飛び込んできた、デスクに倒れ伏すソーヤの姿。
デスクトップの脇に転がる空のカップ。
駆け寄ったワタリに肩を揺すられても反応はない。
ぐったりと力なく垂れ下がった腕は、ソーヤにもう意識がないことを物語っている。
「ソ、ソーヤさん? ……ソーヤさんっ、ソーヤさぁん!」
「だめみたいだね。ヒナトちゃん、ラボに行って医務の人たちを呼んできて」
「わかりました、ソーヤさんをお願いします!」
言うが早いかヒナトは走り出した。
ラボは花園の主機関でありGHの上の過程だ。
オフィスと同じ棟の、五階から上はすべてラボに属しており、用途別に開発部などのいくつかの部署にわかれている。
そのうちのひとつが六階の医務部で、名前のとおり職員やソアの健康管理などをしている。
一旦エレベーターの前まで行って、やっぱり階段のほうが早いと思い直す。
向きを変えようとして転んだ。
思い切り鼻を打った。
鼻骨に響く鈍痛をなんとか堪えて立ち上がる。
早く、早く医務部に行かないと。
焦れば焦るほど足がもつれそうになってしまって、二階上の医務部がやたらに遠く感ぜられた。
遅っせーな──脳内で先日のソーヤの言葉がフラッシュバックする。
こんなときまで、役立たずだ。
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