data_003:ココアとコーヒー、それからココア

 ヒナトの一日は一杯のココアから始まる。


 ここ花園では、すべてのスタッフは同じ食堂のテーブルで食事をする。

 ソアたちも例外ではない。


 宿舎や浴場など生活に関する施設はすべてひとつの棟に入っていて、食堂はその二階にある。

 ちなみに一階が浴場で三階以上が宿舎だ。


 食堂だけでなく風呂もトイレもシャワー室も、基本的にすべて共用である。

 宿舎だけはなぜか個室なのだが。


 というわけで今日も食堂にはたくさんの職員が集まっている。


 朝は甘いもの、がヒナトの定番だ。

 甘ければホットミルクでもいい。

 だが、やはりココアのもたらす幸せは何ものにも代えがたい……とヒナトは思う。


 隣に座っている研究員は澄ました顔でコーヒーを飲んでいるが、べつに羨ましくもなんともない。


 コーヒーが飲めない大人だって絶対にひとりくらいいるはずだ。

 そんな苦い液体が呑めたって偉くも恰好よくもない、はずなのだ。

 だから今ヒナトがちょっと羨望の目線で研究員を眺めているように見えるのならそれは気のせいか勘違いも甚だしいってものである。


「挑戦してみれば? 砂糖とミルクたっぷり入れれば案外おいしくなるかもよ」

「それじゃ意味ないんですってば……ブラックじゃないと」

「ふうん。ま、頑張れ」


 名前もよく知らない研究員は、大人の余裕というやつを滲ませた笑みを浮かべて席を立った。

 これから研究室にこもって顕微鏡とにらめっこするらしい。


 彼のような研究員がヒナトたちソアの生みの親なのだと思うと、なんだか不思議な感じだ。

 もしかしたら今の人がお父さんだったりして。


 もちろん精子の提供者は別の人間だ。

 噂によれば、ソアたちを作るのには精子バンクや医療機関で保存されていたが、古くなって廃棄寸前になったものを利用しているらしい。


 ともかくヒナトがこれまた激甘のシュガートーストを齧ろうとすると、どこからかコーヒーの香りがした。

 誰だろうと顔を上げる前に声をかけられる。


「何がブラックじゃなきゃ意味ないんだ?」

「そりゃあだってソーヤさんが……って、うわあ本人だった!」


 振りむいたら背後にソーヤがいたので、ヒナトは驚いて、もうちょっとのところでパンを落っことしそうになった。

 が、ぎりぎりのところで堪えた。頑張った。


「よ。挨拶は?」

「お……おはようございます」

「はよ。んで、俺がどーしたって?」

「え、いやあの……」


 ソーヤの切れ長の瞳にじっと見つめられ、ヒナトはなぜか上手く喋れなくなってしまった。

 それは、その、と変に言い淀む。


 べつに何か疚しいことがあるわけではないのだから、さっさと言ってしまえばいいものを。

 どうしても、どうやっても、そこから言葉が出てこない。


「ヒナ?」


 わからない。

 自分自身がわからない。


 どうしてこんなに、……恥ずかしいのだろう。


「ソーヤさんが……いっつもブラック飲んでるから、です。


 ……あああの違いますよ真似とかじゃなくて! いい加減ちゃんと味がわかるようにならないと、美味しいコーヒー淹れられるようにならないと思ってえーとだからその、それだけっ、……それだけです!」

「え」

「毎回まずいまずい言われるのもそろそろ飽きたんです! 当然でしょ!」


 勢いだけで言いきると、肩で息をしながらシュガートーストにかぶりついた。

 もう何も訊かれたくないし何も答えたくない。


 凄まじい勢いでトーストを食べるヒナトの姿にさすがのソーヤも気圧されたのか、彼は黙ったままだった。


 もしかして呆れられてるんだろうか。

 少しだけ不安になる。


 いや、今さらだ。普段ひたすら役立たずなヒナトのことなど、もうとっくに見限られているに違いない。

 そう思い直すと今度は悲しくなってきた。


 ちょうどトーストの最後のひと欠片を口に押し込んだところで、無性に泣きたくなった。


 でもソーヤの前でだけは絶対に嫌だ。

 馬鹿にされるに決まっているし、下手をすれば今後ずっとネタにされてからかわれるだろう。


 ヒナトはぐっと堪えてココアを呷る。


「おい、ヒナ」


 そのとき急にソーヤのほうから手が伸びてきたので、ヒナトもついそちらを向いてしまった。


 同時にぽすんと頭に何かが載せられた。

 温かくて大きい手だ。


「俺がいつおまえに美味いコーヒーが飲みたいっつったよ。べつにいいよ、今のくそまずいコーヒーのままで」

「……はい?」

「そのほうがヒナらしいってことだ」


 ソーヤの言っている意味がさっぱりわからない。


 だが、怒る気にはなれなかった。

 意味はわからないなりに、どうやらヒナトを慰めてくれているらしい、ということだけは伝わったからだ。


 意外に優しい人なのかもしれない。選ぶ言葉が悪いだけで。


 でもそれを認めるのがどうしても悔しかったので、ヒナトはぷいとそっぽを向いた。

 我ながら子どもっぽいなとは思ったが、そして頭をなでられはしていたが、からかわれることはなかった。

 そのほうが余計に悔しいこともソーヤはわかっているんだろうか。


 せめて撫でながら、よしよし、って言うのをやめてほしい。

 犬かっつーの。



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