最悪の気分だ

 ホテルを出て、すっかり夜に覆われてしまった空を見上げる。美しくあろうとする星たちは、自分のいるべき場所、その空で自己主張をしているようだ。俺を見てくれよと言わんばかりに、目に痛いくらいの輝きを放っている。

 こんなにも最悪の気分だっていうのに、世界は俺を置いてけぼりにする。全ての歯車は回り続けている。

 どうにか以前の俺を取り戻したいのに。あの日から全てがおかしくなった。あのとき間違って女の子を同時に呼ばなければ。あのとき目に入った今村を軽い気持ちで誘わなければ。あのとき今村を押し倒さなければ。あのとき俺が――。

 何をしたってもう変えることのできない過去を、この現実を嘆く。

 今どう足掻いたところで俺は俗に言う、浮気、をしていたのは事実だ。それに今村の手を引っ張ってしまったし、男の味すらも知ってしまった。これこそが現実だ。動きようもない。この感情を鎮めるためにどれだけ怒り狂おうとも、幾度あいつを殴ろうとも、現状変わることなど何もない。俺はもうすでに変わってしまったのだから。

 どうしてあのユミを目の前にして何も手を出せなかったのか、本当は少しだけ感づいていた。たぶん、原因はわかっている。だからといって試すことなんてできないし、やりたくもない。俺の求めているものが少しずつ変わっている、それに気付いてしまうのは嫌でたまらなかった。

 俺はまだ、彼女の滑らかで温かな肌を抱いていたかったのに。恋人という立場につけないとしても、それでも良き理解者として、俺の人生の中で一番大切なひとだった。好きだったか、愛していたかは……今でもわからない。その感情はきっと今までもこれからも、俺にはないから。でも彼女を必要だと感じていたのは本当だった。それなのにあんなこと。俺から彼女を手放したも同然じゃないか。

 元凶は、あいつだ。どうしたって許してやるもんか。何度だって殴ってやる。何度だって裏切ってやる。何度だって――。

 俯きがちに駅に向かって歩いていると、不意に腕を掴まれて壁に押しつけられた。力いっぱい壁にぶつけてくれたらしい、背中と後頭部に痛みが走る。その男は俺の顔のすぐそばに手をついて、上から見下ろすようにしている。息が荒い。無駄に力が強い。そしてこの、覚えのある香り。やっぱり、思った通りそいつは今村だった。

「――あ、あのね……」

 今村は急に頬を赤く染めて言葉を紡ぐのを躊躇った。

 ついさっきまで殴りたいと思っていた顔が、ちょうど今、目の前に現れた。これほど絶好なタイミングはない。一発見舞ってやるなら今だ。緩く右の拳に力を入れ始める。

「……でいいから……その、僕と……」

 それなのに腕は上がらなかった。いつもより自分の身体が重く感じられる。こんなに簡単な動作ですら、できない。

「――お前、よく俺の前に出て来られたな」

「えっ」

 呟くように言ったから今村には聞こえなかったらしい。まあ、どうでもいいけど。

 ため息を吐いて、静かに顔を下に向ける。

「何でもない、続けて」

「あっ、えと……う、うん。僕ね、実は、君のことが……好き、で」

 「実は」も何も、バレバレだった。そんなこと、とうに知っていた。そうでもないと俺の後をつけたり、隠し撮りしたりなんてしないだろうから。ストーキングなんてしないだろうから。浮気男に誘われてのこのこホテルに着いてくるなんて、しないだろうから。

 全部わかっていたつもりなのに言葉にして伝えられると、どうだろう。今まで隠れていた怒りがまた少しずつ帰って来る。

「だ、だからさ、その、もう一回だけでも――」

 もう一回? もう一回だと? こいつは自分の犯した罪のことをわかっていないのか?

 犯罪ラインギリギリに立っているというのに。どうにか証拠をかき集めて警察に訴えたら、どうなるかわかっているのか。あれは……お前は許されない。

「……っざけんな、このクソ野郎っ!」

 思い切り突き飛ばして、ひとつ、殴る。ぐらりとバランスを崩した今村は崩れ、頬を抑えて地面を見つめている。何もわかっていないらしい。良い気味だ。

「覚えとけ、俺はあんたが大嫌いだ」

 パッとこちらを向いた今村はポカンと口を開けたままで、今起きたことを理解できていない様子だった。傑作だった。悲しそうに、信じられないとでも言うように、俺を見つめているのが。絶望の底に落とされたみたいな瞳で、俺をただただ見ることしかできないそいつが。

 馬鹿な奴だ。こうなることくらい簡単に予想できただろうに、自分を抑えられないなんて。笑える。

 どこかに何か引っかかるものを感じたが、無視した。それより、怒りがすうっと晴れていくのを感じていた。俺はもう大丈夫だ。これでもう、問題は何一つなくなるはずなんだ。

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