ぼくは
うす暗いろうか、リビングルームの前。ぼくは音を立てないようにして、ただその場にいた。とびらの向こうの言葉を聞くために、目を閉じて耳をすます。たぶん、本当は聞かなくていい、聞かない方がいいような話だろうけど。
「やっぱりお前は天才だ!」
「そりゃそうよ、あなたの息子だもの」
お父さんとお母さんの声が聞こえてくる。おおげさだけど、うれしそうな声色。ぼくには向けたことなんてない言葉。
ウソみたいに、マボロシみたいに聞こえるその音は、夜をしずかにふるわせる。ぼくは、自分の意思でここに来たのに急にこわくなって、それなのにその場から動けなかった。聞きたくもない会話のつづきを、聞かなくちゃならなくなった。
「――恭平とは正反対だ」
お父さんのじまんげな色が、ぼくの目の前に黒いもやを広げる。それから弟のそこぬけに明るい声がつづく。
「でしょ! お兄ちゃんとは違って、僕はユウシュウだからねっ」
とびらからもれ出る光のせいで、ぼくのいばしょの暗さをより感じさせられる。かげの中にぼくのかげを見つける。光とかげが交わることなんて、ゼッタイにありえないのを知ってる。
「本当に偉いわねえ、康平は」
お母さんは、はじめて聞くような甘い声を出す。ぼくにはゼッタイ出さない、康平のためだけのやわらかいほめ言葉。
そう、康平はぼくの兄弟だ。ぼくより優れたすごい弟。ぼくとは正反対の、明るくて何でもできちゃう、天才。だからお父さんもお母さんも、ぼくより康平の方が好きなんだ。そんなこと、ぼくはずっとずっと前から知ってた。
息ができなくなってくる。暗いままの目の前が、すうっとにじんでいく。寒くてたまらなくて、まくっていた袖をもどそうとする。そのうでに赤いあざと、きずあとを見つけて、息がつまる。苦しい。
ぼくは泣きそうになりながら、かげのおく深くへ走り始めた。
――それでも耳のすぐそ近くで、僕のいない家族の会話が聞こえる。
『康平はきっと良い高校に入れるわね、お母さん嬉しいわ』
『中間テストでは一位だったらしいじゃないか。ほら、これはご褒美だ』
『やった、これ欲しかったんだっ! 兄さんには内緒だね』
真っ白な夜の中、僕は全力で走る。目的地なんてない。どこでもいい、どこか遠くへ行きたかった。何だっていいから、誰かの温かさを感じたかった。この声が、言葉が届かないような場所へ。家族ではなくてもいいから、僕を包み込んでくれるような誰かの体温のもとへ。
これほどまでに静かなのに、どうしてもうるさい。嫌いな声が、聞きたくない言葉が、脳内で耳元で身体の中で、反響している。
うるさい。うるさい、うるさいうるさい。
僕はその場にしゃがみ込んだ。そのまま身体が沈んで行って、落ちていく。どこまでも落ちていく。下へ、下へ、下へ――。
気付けば目の前にはユミがいた。露出した白い肌を隠すように、薄い布を纏っている。
「ごめんね」
悲しそうな顔で俯いている。今にも泣き出しそうで、それでもそれこそが美しくて。
「私が……私に、魅力も色気も、何もなくなっちゃったから」
言われてから理解した、この状況を。
「い、いや違う、そういう訳じゃなくて――」
「いいよ……大丈夫。私だけは恭平くんをわかってあげられる」
すっと立ち上がったユミは、どうにか否定しようとする俺を横目に、さっさともと着ていたワンピースを身につける。
「……ね、恭平くん、好きな人ができたんだよね? 私なんかよりかわいくて、もっと色っぽい、素敵な人」
その声にはさっきまでの熱っぽさも、いつもの柔らかさも甘さも、何もなかった。最後の事務報告、契約の破棄、そんな感じで。俺との行為も会話も何もかも、全部が全部仕事だったみたいな。
待って、行かないで。おいて行かないで。俺をひとりに、しないでくれ――。
「ね、それならもう会わない方がいいよね。さよなら」
口は動いているはずなのに、俺の声は彼女には届かない。手を伸ばしても、追いかけても、届かない。彼女はもう、遠くへ行った。きっともう二度と会えないような場所に。
いつもなら欲情してしまうような彼女の美しい裸体を見ても、柔らかな肌に自分を沈めても、どうしても胸が高鳴ることはなかった。いつだって「恋」というものは彼女に抱いてこなかったが、愛のない行為ではあったが、それでも俺たちは愛し合った。彼女と遊んでいた。彼女を満足させられていた。
それなのに今は……機能しなかったのが信じられなかった。それだけじゃない。俺の中心、奥深くに渦巻くものを見つけてしまった。腹の中の欲望を感じてしまった。
欲しいものはそれじゃない。俺が欲しいのは――。
目を覚ましてからスマホを確認する。この部屋から彼女が消えて、数時間経った。もうそろそろ退出の時間だ。無駄な金を払ってただひとりで寝る価値なんて、少しもない。最悪な夢を見るだけだ。
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