消えていく

 もう何も起きないと思っていたのに、こんな仕打ち――いや、正確には何も起きていないのだが、何も起きていないにも程があるのだ。

 例えばいつもだったら、大学をサボってでもかわいい女の子と遊んでいた。何も言わなくても誰かが寄ってきていた。例えばいつもだったら、講義なんて聞かずに友人と教室でこそこそ笑い合っていた。誰かの愚痴やかわいい女の子の話をして。例えばいつもだったら、朝日が見える前に家に帰ることなんてしなかった。夜こそ俺の時間だったはずだから。

 あれ以来女子を相手にしても何ひとつ楽しくなんてないし、俺も相手も満足に遊べなくなってしまっている。毎晩のお楽しみだったアレは、一度だって成功しなくなっていた。ユミだけじゃない、どんなに魅力的な女子にも欲情しなくなってしまったのだ。柔らかな裸体をベッドに沈めてこれからだってときは、いつだってあいつの顔やあの夜のことがちらついて全てが崩れていくのだった。それに、遊べないから家にひとりでいる時間が増えた。十歳のところ、それが一番の辛いことだったかもしれない。

「おい小林、今日もどうせ女子と遊ぶんだろ? いいよな、お前はモテて」

 大学の門を抜けてしばらくした頃、おどけたように手をひらひらさせながら友人は言った。そこにはいつもの茶化す雰囲気以外にも、何か別の色が見えた。何だか、冷たいような、突き放すような。

「あー、いや。今日は帰るわ」

 俺がそう言うと大げさなくらいにふたりは驚いた。

「えっ? あの小林くんが?」

「最近真面目すぎじゃね、小林。らしくないよ」

 それでも、親友ふたりからは驚きだけじゃない何かを感じる。俺が変わってしまったからなのか、それとも。

「俺は別に……何も変わっちゃいないよ」

 言いながら心が締め付けられた。いつも通りに軽く言ってのけることができなかった。現状を偽って話すことで、自分の置かれている状況をより理解してしまう。裏側が見えてしまう。昔の俺にはもう戻れないのだと、痛いくらいにわかってしまう。

 だけど、まだ良い。遊び相手がいなくなった、というか俺が遊べない身体になったというだけで、友人はこうやって隣にいてくれる。変わらないものだってあるんだ。心の底から安心するような温度に包まれる時間が減っただけだ。別に、死ぬ訳じゃない。こいつらがいてくれるなら、俺は――。

「なあ、小林……一個、聞いて良いか」

 ――そう思っていた。

「何だよ……? そんな真剣な顔して」

 空気が変わった。晴天の下、澄んだ空気が薄暗く濁った。嫌な予感がした。

「お前さ、なんで最近ちゃんと大学生してんの?」

 彼の言葉はコトリと音を立てて落ちた。下を向いたままの彼の顔は、長い髪に隠されていて見えない。

「少し前まではさ、今日は遊ぶから、今日は行けないから、って俺たちに出席届出させて全部俺たちに押しつけて」

 冷たく睨まれるのを感じた。

「勝手に俺たちにくっついて回って仲良いとか勘違いしてさ、それなのに指図して……鬱陶しいんだよ!」

 荒々しく胸ぐらを掴まれて、強く揺さぶられる。脳が揺れる。何を言われているのか、良くわからない。

「お前本当にどうかしてるよ。浮気しまくって、遊びだから許されるとか言って、馬鹿じゃねえの? そりゃお前の周りみんな逃げるに決まってるだろ!」

 ふと視線をずらして見れば、にこにこ笑いながらこっそりスマホを構えている影が見えた。

「それにさ、リーダーぶって楽しいかよ。俺らふたり従えて王様気分かよ。お前が世界の中心なんじゃねえんだよ。うぜえよ、マジで」

 目の前でこぶしが振り上げられた。見えていた。たぶん、どうにかしたら避けられたと思う。だけどそんなんじゃなかった。そんなことはできないくらい、心がかき乱されていた。これは受けなくちゃならない痛みだと、ぼんやり感じていた。

 左から衝撃を感じて、口の中に血が滲む。左頬が熱を持っているのがわかる。あぁ、俺は今、こいつに殴られたんだ。親友だと信じていたこいつに。理解するのに少し時間がかかった。

「どうでもいいけどもう二度と俺たちに指図するなよ。てか顔も見せるな」

「じゃあな、パフォーマンスどうもありがとさ~ん!」

 友人にとっても、俺はただの道化にすぎなかったのかもしれない。このあとふたりでこの動画を見て、腹を抱えて笑うんだろう。もしくは不特定多数の誰かに拡散して、俺の地位を下げるのか。いや、元から底辺だ。下がるものなんて何もない。失うものだって、これ以上はない。

 頬を押さえながら、友人だった背中が遠ざかっていくのを見つめた。何かを嬉しそうに見ているようだ。あれは、金、だったろうか。見えなかったのはたぶん、その後ろ姿が滲み始めてしまっていたから。

 俺はまた、ひとりになってしまったのだ。

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