第五章

家族想いの泣き虫

「紬ーはやく学校いこー」


 ドアの向こうから杏奈の叫び声が聞こえてくる。

 紬はマイペースに靴を履き、カバンを背負って家を出た。


 いつも通りの朝、ぷち寝坊をして杏奈が家の前まで迎えに来てもらうといった意外な一面をもつ紬は今日も平常運転だ。



「おまたせ」


「はやくはやく!」


 何やら今日は一味違う一日のようだった。

 杏奈はその場で足踏みをして少し焦り気味なのだ。輪郭に汗が伝い、夏らしさを漂わせる。ただでさえこんな時期なのだから余計にこっちも暑くなってくる。


 言ってももう九月後半一ヶ月もすれば過ごしやすい季節にもなるのだろうか、と思うが猛暑は続く。



 もう彼女と出会って約一ヶ月が経とうとしていた。

 叶羽が隣の席の椅子に腰をかけ、ジンジャークッキーを眺める姿が脳裏を過る。


 彼女のためにも未練を解消したいと強く思っている紬だが、彼女は一ヶ月が経った今でも未練のことに触れようとしてこない。

 寧ろ、話を逸しているようにまで思えてきてしまう、そんな時期が長く続いた。



 そんなことを頭に浮かべながらぼーっと空を眺めていると、視界に杏奈がひょこっと割り込んできた。



「はやくって〜」


 何やら本当に急いでいるようだった。


「あ、ごめん。でも今日は何かあるの?」


 小走りの杏奈の背中を追いかけ、眠そうな声で紬は尋ねる。


「今日は日直だからね!」


 胸を張ってやる気満々の杏奈。紬からは背中しか見えないがきっと自慢げな顔でいるのだろう。


 杏奈はいつもこういう時は至って真面目だ。

 勉強にはやる気というものを一切感じないが、人には迷惑をかけないように常に気を配っている。



「偉いね、そういうところ見習いたいよ」


 ぼそっと紬は呟いていたが、多分杏奈の耳には届いていなかっただろう。

 そんなこんなで二人は他愛ない会話を交わしながら学校へと向かった。



「ふぅ、いい汗かいたよー」


 学校についた紬は杏奈の姿を見つめる。

 紬が一滴も汗をかいていないのに対して、杏奈は汗だくでタオルまで取り出しているのだ。



 決して杏奈が汗っかきなわけではない、寧ろこれが普通レベルにこの夏は異常気象なのだ。

 ただ、紬が恐ろしいほど汗をかかないのだ。まるで紬だけが二次元にいるのかのように。



「私も手伝うよ」


 紬が日直の仕事の黒板消しをしようと黒板に手をかけると、その手に覆いかぶすかのように杏奈は手を重ねた。



「うんん、それは大丈夫ーほら、いつものように屋上にでも行ってきて?」


 杏奈はいつもこうだ。

 人に迷惑をかけないことが絶対条件なのか、今までこういうことだけは譲らなかったことは紬が一番良く知っていた。



「わかった」


 潔く教室から立ち去り、紬は屋上へ叶羽を探しに行った。

 紬が幽霊に会いにいくなどとも知らずに、黒板消しを手に取る。


 杏奈は昨日の日付が書かれた黒板の雑な字を黒板消しで消した。あまり黒板消しが綺麗ではなかったのか、消しても白く後が残る。



 白い跡は気にせず、チョークで上から25の文字を丁寧に書いていく。杏奈は習字のように美しい字体をしており、実に模範的だ。

 字を書き終えると、チョークを粉受にそっと置く。


 それから黒板周りの掃除をしたり、花瓶の水を変え直したりと日直の仕事を難なくこなしていった。



「ふぅ」


 一息ついて杏奈は紬の隣の席に着席。背もたれに寄りかかって、額の汗をタオルで拭き取る。



 時刻はまもなく七時半、杏奈は教室を見渡した。誰もいない教室は勿論静かで杏奈の心を落ち着かせた。

 そのままぼーっとして視界がぼやけ始める。


「なんか、もう、眠たい……」


 杏奈は他人の机で伏せて眠りについた。






 ―その十分後


「杏奈…」


 紬はその眼に杏奈の寝ているその泣き顔を映した。きっと無意識に涙を流していたのだろう。

 そのまま紬は杏奈の隣の自分の席につく。


 にしても、杏奈の席は紬の前のはずだが…とも思ったが紬はそこには深く触れないでおこうと思い、目を逸らした。



「疲れたんだね、いつもお疲れ様」


 紬は知っていた。彼女がどれだけ苦労しているかも、どれだけ辛い想いをしているかも。




杏奈を見て少しばかりほっとしていた紬だったが――





「如月さん!」


 担任の教師が慌ててこの教室へとやってきた。息を切らしてだいぶ焦っている様子だった。

 そんな教師は息を整え、ゆっくり口を開いた。



「お父さんが倒れたの」


 教師は静けさの中の教室で紬にそう告げた。

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