前を、また向いて

「如月さーん診察室へどうぞ〜」


 病院の看護師が紬の上の名を読み上げる声が聞こえた。


 席から診察室まで移動しようとしていたその時……


チリン



 何処からか鈴の音が聞こえたような気がした。周囲を見渡すが、鈴らしきものは見当たらない。誰かが身につけていたわけでもなく……空耳だろうか。

 紬は気にせず診察室まで向かった。




『小指骨折だった』


 診察が終わると、そんなメッセージを充孝に送り、病院を後にして学校を目指す。

 にしても、ここらの地域は近くに病院が少ないものだ。決して田舎という訳ではないが、都会でもないどちらでもないような中途半端な地域だ。

 だから、先程の病院から自転車でも四十分かかってしまう。



―学校にて


 遅刻という形で学校へ着き、教室の扉を開けると号泣した杏奈が立ち尽くしていた。



「杏奈?大丈夫?」



「………つ、つ、紬!?」


 目の前の状況を今やっと理解したようで顔に驚愕の表情を浮かばせている。



「杏奈、皆はどこ?」


 そう、教室には杏奈以外の人が誰一人ここにいないのだ。時間割通りだと、三限目は理科の時間で教室で授業だったはずだが。



「皆ー?なにそれ?」


「クラスの皆よ」



「あ〜「あいつら」ね」



「?」


 急に杏奈の声のトーンが下がり、一気に冷たい表情へと変わった。顔は曇り、いつもの杏奈の様子とは全く違う。



「あいつらは私が皆………


チリーン










「!?…………って夢?」



随分魘うなされてましたね、大丈夫ですか…?』



「大丈夫よ、えってここ…廊下…?」



『廊下で寝ていらっしゃいましたよ…何が起こったんですか』


 気づけばここは教室前の廊下。教室目前にして寝てしまっていた(?)ようだ。にしてもさっきの夢はとんだ悪夢だった。あんなことなど夢にももう二度と出てきてほしくなんかない。



キーンコーンカーンコーン


 三限目のチャイムが丁度タイミングよく響く。



「(あれってもしかして夢?正夢何かにならないよね……)」


 そんな不安を抱きながら教室の扉を開くと、見慣れた風景が広がっていた。いつものクラスメイト、いつもの教師、黒板に、優しい表情の杏奈。肩の力が抜けて、紬は安堵する。




「あら、如月さん。おはよう〜」


 教師は紬に微笑むかける。



「おはようございます」




「紬〜!!」


 今度は杏奈が登場し、大きな声で紬を呼ぶ。



「咲間さん静かにしてね〜」


「あ、はーい」


 変なフラグをたててしまったと思いきや、全くそんなことなかったので一安心。

 授業が再開すると叶羽は紬の隣の席に腰をかけた。


『私も授業受けます』


 叶羽がにこっと微笑んで見せると、黒板に書かれた字を一生懸命目を細めて見つめ始めた。



 そして紬も負けないように共に勉強に励む。鉛筆を握り、黒板の字をノートに移していく。

 まともに昨日授業をうけていなかったからか、頭の回転が悪い。





 集中力が切れたまま、一日の授業が終わるとクラスメイト達は部活や帰宅をするため教室を離れていく。


『授業…何か懐かしかったです』


 教室に残ったままの叶羽と紬は椅子に座ってのんびりとする。

 春日色に染まった空に照らされた叶羽の頬はほんのりと赤くなり、とても幽霊だとは信じたがたく思えてくる。



「でも授業が毎日は疲れるよー」


『でも羨ましいです…』


「私に乗り移って人間生活楽しんでみてもいいけど?」


『できますけど、そこまでしなくて大丈夫です』


 冗談気味でそう紬が言うと、真剣な顔して断った。

 乗り移りたくないと言うより、乗り移るのは申し訳ないって感じだ。





「あの時からずっとモヤモヤしてたんだけど、あなたの本当の未練って何なの?……ごめん、聞いちゃ良くないとは思った…思ったんだけど…」


 紬は聞いてはいけない、そうわかっていたが、どうしても気になってしまい尋ねてしまった。

 叶羽は一度顔を下に向けたが、しっかり紬の方を向き直して口を開く。




『わからないんですよね、それが……私は自殺してから十年ほどの月日が経っているにも関わらず、未練すらわからないままなので……でも、自分で自覚していなくても未練が晴らすことができたなら成仏できるようなんです』


『あれから十年…私は結局何もできていないんです……昔と何も変わっていないんです…ここにいても、いじめを受けていた頃の羞恥心が蘇るばかりで私はここにいる意味がないんです………幽霊でも存在する意味なんて何処にもないんです。ただ邪魔な存在なんです』





 叶羽はどんどんどん紬から視線を逸した。自信がないのか、自然とそんな風に聞こえてきてしまい、叶羽は身を縮めこんでしまった。


 こんな時、紬は彼女にどんな言葉をかければいいのかなど考えもしなかった。慰めもいらない、ただ叶羽の俯く姿より笑っていてほしいと願い、叶羽の顔を覗く。



「あのね、叶羽」



『……』



「私は叶羽に笑っていてほしいよ。勿論未練も晴らして新しい幸せに辿り着いてほしい。だから、ここで歩むのを止めないでほしい。まだ諦めるには早いよ、私だって力になることがあるなら助けるから」


 紬は照れくさそうにそう言ったが、叶羽の心にはとてもよく響いた。




『私のことまで背負っていれば、紬さんは折れてしまいます……私を手伝ってくださるのはとても嬉しいですが…』



「これは私だからできることだと思ってる。この仕事をすることに何か意味があるって。だから私の身に起こっているこの現象の真相を自分で解き明かしたいの」




 紬は椅子から立ち上がってから窓の外を眺める。

 その時の紬の姿は実に美しかった。黄色の瞳は夕日で金色に輝き、すらっとしたその背丈がスタイルの良さを際立たせている。いつもの紬とは違うようだ。




『どうして……どうしてそこまで私なんかのためにしてくれるんですか?メリットなんてないじゃないですか』


 叶羽は地味に怒り気味で心配する紬に当たった。何故そこまで自分を助けようとしてくるのかが、理解できなかったのだろう。



 彼女は胸の内では自分にも辛く当たっていた。



―何故自分は自身の未練すらを把握できていないのだろうか

―何故自分はここにいるのか

―未練がましいただの幽霊なのではないか


 と、自分を攻め続けて心を締め付けた。




「どうしってと言われても、自分でもよくわかってないんだけどね。じゃあ、少し昔の話をさせてもらおっかな」


『……』


 叶羽はただ頷いて、紬をずっと直視する。真剣な眼差しでただ見つめて耳を傾けた。


「私がまだ幼くて物心ついたくらいの頃――」












―約八年前


「お母さん!!!!」


 幼い紬は叫ぶ。

 母は病気だった。原因は気管支喘息。母はヒューヒュー音を上げ、苦しそうに胸を抑えて倒れたのだ。




さくら!!!」



 紬の父も涙目になって叫んでいた。


 救急隊は直ぐに駆けつけ、三人は救急車に揺られて病院に向かった。

 病院に着けば看護師や医師が忙しそうに廊下を行き来していた。

 父と紬も治療室の前でただ祈るだけだった。


 医者は二人の前に立ちすくんで暗い顔をした。



「すみません」


 医者は一足遅かったと言って、その場を後にしていった。医者は謝る必要などなかった。紬の母は元々病弱だったのだから。





 そして二人はこの日に堺に変わってしまった。


 父は葬式でもお通夜でも一滴も涙を流さずにいた。理由はわからなかったが、何かけじめをつけていたのかもしれない。


 葬式後は少し厳し目の父はいなくなり、優艶な人へと変わっていった。





 紬はというと、葬式でもお通夜でも葬式後でも大粒の涙を流し続け、明るく元気な紬は霧に包まれていったかのように消えてしまった。





 そしてある日、母の遺品を整理しようとした紬は母の部屋に足を踏み入れた。

 遺品の中には積み上がるアルバムの数々や、古く錆がかった楽器などがあった。



 アルバムを開けばセーラー服姿の母の姿、楽器を抱ええいる母の姿、手を洗っている姿などの部活中の写真が九割を締めていた。

 きっと誰かが撮ってくれていたのだろう。


 紬はそろそろ切り上げようと遺品を収納しようと戸を開けると、日記が頭の上に落ちてきた。



「…何、これ」


 これはは間違いなく母の日記であった。整った表紙の字体に細々しい鉛筆字。表紙には新井という旧姓だけが記入され、中にはびっしり文字が敷き詰められている。



 中の字は表紙とは似ても似つかぬ荒れ果てた字だった。



『何で?私だけ?勉強は必要があったの?母さんは何を考えていたの?この気持ちは決して忘れはしないの、絶対に』


 この後も文字は続いていたが、この先はもっと字が荒くてとても読めはしなかった。


 そして、このときの母の気持ちを知る由もなかった。





―だが、今の紬は違う


「このときね、お母さんは天に昇っていたそう思ったんだけど、貴方と出会って思ったの」


『何をですか?』


「お母さんはもしかしたら、何処かにいてまだ私を見守ってくれているんじゃないかな、なんて。だから、私はお母さんを救えなくとも、お母さんと同じ想いをしている幽霊を助けたいって思った。親孝行できないから……ただそれだけじゃだめ?」


 窓際をずっと見つめていた紬は叶羽の方を振り返り、笑ってみせた。

 その姿を前に叶羽は思わず見とれてしまった。



『……紬さんはかっこいいですね』


 そして、自分と違う前向きな姿勢の紬に叶羽は思わず尊敬の念を抱いた。



「かっこよくなんかないよ、昨日なんて死にかけてたし。助けてくれた叶羽の方がかっこいいよ」




「紬さんは優しいです。私、やっぱり――未練が晴らすことができるまでまだここにいたいです」


 叶羽は安堵したようでゆっくりと瞼を下げて、頬に手を添えた。

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