第50話 天壊の女帝と、抱きつかれた男<12>

 ***


「時乃、せめてあなたが影劫を破壊するまでの間くらいは……私が母さんの足止めをしてみせます」


「ほう……? どういう風の吹き回しですか、弦羽。私との稽古から逃げ出したあなたが、今さらこの母と刃を交えるつもりですか」


「さあ? 正直言って、私にもよくわかりません。気が付いた時には跳翔を抜き、構世術を使っていましたので」


「フッ……なるほど」


「ただ一つ、確実に言えることがあるとするなら……傲慢なクソババアのあなたよりは時乃を……妹のことを大切に思っているつもりです」


「……はあっ!」


 時乃が右手に持った燦令鏡で影の檻を斬りつける声が、訓練場内に響く。


「……何ですって? 私が時乃を大切に思っていない……? それに今、ババアと言いましたか」


「いいえ、違います。ク・ソ・ババアと、言いました」


「まったく……その性格は一体誰に似たのでしょうね」


「認めたくはありませんが、あなただと思います」


「フッ、またそんなことを……ん? 何ですか、この感触は……?」


 路日が左頬を触ってその違和感の正体を確認すると、指先に赤いものが付着していた。


「これは……まさか、私の血! この私の顔に……傷を!?」


「今頃気が付きましたか。面の皮が厚過ぎるのも困りものですね」


「フフフ……いいでしょう、弦羽。何年ぶりになりますか? 稽古をつけてあげますよ。しかし、忘れているわけではないでしょうね。あなたの戦闘スタイル……超高速戦闘術。それができるのは自分だけではないことを……!」


「お互いに神空を使ったとしても……跳翔で瞬発力を強化した私の方が速さに関しては上のはずです。それに、接近戦での斬り合いも大剣の太耀皇よりこちらの方が有利ですよ」


「そうでしょうか? 弦羽、あなたと私では元々の身体能力、剣の技量、そして経験が違いますよ。何しろ、私は熟練のクソババアですからね……! 試してみましょうか?」


「ええ……!」


「「神空っ!」」


 時乃は思わず、その叫び声がした方へ目線を向けた。


 そこには姉の姿も母の姿もなかったが、鋭い剣戟けんげきの音と肉と骨がぶつかる鈍い音が、異次元の領域で繰り広げられる二人の戦いの激しさを物語っていた。

 時乃にはまだ扱えない、敏捷性を飛躍的に向上させる構世術を使った者同士の戦いは……ほどなくして終わりを告げる。


「くぅっ!」


 弦羽の細い身体が訓練場の天井近くまで高々と弾き飛ばされ、黒紅色の長い髪が舞う。

 さらにその真下に現れた路日が太耀皇の切っ先を天へ向けると、鍔に施された金色の太陽の装飾が輝き、それに呼応するように刀身も眩しい光を放つ。

 やがて、光剣の名の通りに刀身を覆う巨大な光の刃を形成すると、そのまま真っ直ぐに……力なく落下する弦羽の元へと伸びていく――


「お姉ちゃんっ!」


 姉の危機を目の当たりにした時乃は、無意識に飛び出しそうになるが――


『時乃、あなたが母さんから受け継いだその燦令鏡で……御早さんを助けてあげなさい』


 弦羽から渡された燦令鏡の薄桃色の刀身を見て、彼女が自分を送り出してくれた言葉を思い出す。


(お姉ちゃん……ごめんなさい!)


 無数の亀裂が走った構世術の檻へ向き直ると、時乃は渾身の力を込めて燦令鏡を振り下ろした。


 ▼▼▼


「……ッ!?」


 視界に眩しい光が差し込み、暗闇の中から解放された御早 勇貴は訓練場の床へ膝をついた。そこに人が駆け寄ってくる気配がする。


「勇貴さん! よかった!」


 顔を上げると、安堵の表情を浮かべた《祓う者》の少女と目が合った。


「時乃? 俺は路日さんの影を操る技に飲み込まれて……お前が助けてくれたのか」


「はい」


(そうか、また俺は……時乃に助けられたか)


 勇貴は床を見つめて、苦笑いを浮かべる。


「勇貴さん……? どこか痛みますか?」


「……いや、大丈夫だ。ところで、時乃。さっきの影に飲まれた時の感覚……前にも一度味わったような気がするんだが、どういうことだろうな」


「えっ? あ……そ、それは……ですね。あの、ごめんなさい。私も以前、勇貴さんに影劫を――」


 時乃が申し訳なさそうに何やら言いかけたところで、勇貴の目に留まるものがあった。


「あれは……弦羽っ!?」


 それは天阪 弦羽と思われる人物が、訓練場の硬い床へと叩きつけられた瞬間だった。


「あ……お姉ちゃん!」


 冷たい床にうつ伏せで倒れた弦羽の身体は、ピクリとも動かなかった。

 損傷した衣服と、白い肌に浮かぶ赤い傷が痛々しい。


「どうして、弦羽が……」


 その疑問の答えは、傷ついた弦羽の後方で仁王立ちする天阪家当主だと察した勇貴は……思わず息を呑む。


(自分の娘にここまでやるか……)


「御早さん、お早いお目覚めですね。おや、その手は……!」


 路日が警戒するような目を向ける先に、自分の黒い妖の右手があることに勇貴は気付いた。


(いつの間に……影の中でもがいていた時に変化したのか)


「……さしずめ実体を持った妖の手と言ったところでしょうか? 凄まじい力を感じますよ。《先祖返り》とはそんな芸当もできるのですね。なるほど、私の影劫にあっさりとひびを入れただけのことはあります」


「自分の意思で好き勝手に使える力ではないですけどね」


「フッ、そうですか。しかし……私が以前戦った《先祖返り》にはできなかったことです。それだけ御早さんの身体に流れる妖の血が濃いのかもしれませんね」


「化け物の血が濃いとか言われても嬉しくはないですよ。両親も妹も普通の人間なので実感はないですし」


「ですが、御早さん。そんなあなたでも影劫の檻に囚われた状態で太耀皇の力の直撃を受けていれば、さすがに戦闘不能になっていたはずです。……あなたが私に討ち取られなかったのは、そこに転がっている弦羽のおかげなのですよ」


 太耀皇の切っ先を無残な姿の娘へと向けて、その母親は続けた。


「目が覚めたら感謝の言葉でもかけてあげてください。時乃と比べるとあまり人から褒められることのない子だったので、きっと喜ぶと思いますよ」


 冷たく言い放つ女帝の姿に、勇貴は戦慄せんりつを覚える。


(この人は……それでも本当に人の親か!)


「しかし、御早さんも時乃も神空を使った私の動きにはついてこれない。弦羽が起きる頃にはあなたたちが床に倒れているかもしれませんね……!」


 路日の身体が青白い光に包まれる。その輝きには見覚えがあった。


(あれは……弦羽が使っていた、目に見えないほどの速さで動けるようになる術か!? あいつの専売特許、ってわけじゃないのか!)


 光に包まれる女帝の姿。

 それはまるで、彼女の放つ威圧感が目に見える形となって溢れているような錯覚を覚える。そして――

 床を強く蹴る音と共に、その姿が視界から消えた。


(ちぃッ!)


 心の中で勇貴が舌打ちした瞬間、みぞおちに強い衝撃が走る。


「ぶ……っ!」


 さらに彼の横にいた時乃の小さな身体が、後方へ大きく吹き飛ばされる光景が視界の端に映る。


「……んっ!」


 勇貴から引き離されるように飛ばされた時乃だったが、空中で身体を捻り倒れることなく着地してみせる。その身体は緑色の光に包まれていた。

 そんな娘の様子を少し離れた場所から冷静に観察しながら、彼女の母親がつぶやく。


「ほう……とっさに防御の構世術を使うことでしのぎましたか。……それなら!」


 獲物を見定めるような路日の目と視線が交差した勇貴は、彼女の標的が自分だと気付く。


「勇貴さんっ!」


 時乃が警告するように叫ぶより先に、路日の姿が視界から消えるよりも速く、勇貴はその場で垂直に跳ぶ。

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