第40話 天壊の女帝と、抱きつかれた男<2>
◇◇◇
次の日の午後、勇貴は天阪家の巨大な門の前に立っていた。
仕事でもないのにスーツを着用しているのは、他に相応しい服装を思いつかなかったからだ。
車で時乃を近くまで送る際に彼女からここが自分の家だ、と聞かされていたので天阪家にたどり着くまでに迷うことはなかったし、その豪邸や敷地の広さに今さら驚くこともなかった。
しかし、改めてその門前に立つと本当に自分のような人間が足を踏み入れていい領域なのか、という気がしてくる。
とは言えいつまでもこうしているわけにもいかないので、勇貴は恐る恐る門柱に設置されたインターホンへと手を伸ばす。
ほどなくして、女性の声で返事があった。
『……はい、どちら様でしょうか?』
電子機器を通したその声は実際の本人の声とは微妙に違うものではあるが、少なくとも勇貴がよく知る天阪 時乃の声ではないことだけはすぐにわかった。
「あ……自分は本日、こちらにお招きいただいた御早と言う者ですが――」
『えっ、御早さん? ……わかりました。今、門を開けますのでそのまま中へお進みください』
インターホン越しに聞こえたその声の主は時乃ではないのは確かだが、一方でどこかで聞いたことのある声だったような気もした。
声の主の正体について想像を巡らせていると、立派な門が音を立てながら開き始める。
(すげえ……大使館とかの門かよ)
門の動きが完全に止まるのを待ってから、勇貴は覚悟を決めるように大きく息を吐く。そして、地獄の門でもくぐる思いで天阪家の敷地へと足を踏み入れた。
◇◇◇
広大な庭を進むと、植え込みの影からリードを付けられた一匹の犬が顔を出す。さしずめこの天阪家を守護する番犬と言ったところだろうか。
その番犬は勇貴の姿を認識すると、歓迎するかのようにパタパタと尻尾を振り出す。
(こいつ……そのかわいいしぐさで俺を油断させて、食らいつくつもりだな……!)
そんな妄想を膨らませながら足を進めた勇貴は、番犬の前で立ち止まった。
その番犬――赤毛の柴犬は獲物の足元へ鼻先を近づけて、人の
やがて、柴犬は勇貴を見上げて再び尻尾を振り出した。その様子を見ながら、勇貴は時乃が以前語ってくれたゲームのパーティメンバーの名前のことを思い出していた。
「柴犬の……『たぬき』。お前のことか?」
そうつぶやくと、気のせいか柴犬の尻尾の振り具合がさらに大きくなった気がする。
「そうか。お前があの賢者、たぬきだったか。……初対面の俺にそんなに愛想振りまいたら番犬としてダメだろ」
当然そんな人間の言葉に応えるわけもなく、たぬきは勇貴の顔を見つめながら尻尾を振り続ける。その様子は犬好きには抗い難い無言の圧力となって勇貴を襲う。
「ふっふっふっ……いいだろう、たぬき。お前にはゲーム中で何度も回復や蘇生で助けられた恩もある。その礼として……今から貴様をたっぷりとかわいがってくれるわ!」
「……何をやっているんですか、あなたは。通報しますよ」
柴犬相手に芝居がかった演技で話しかける不審な成人男性の背後から、不意に声がした。
「ッ!? す、すみません! 自分は確かに怪しい者であることは否定しませんが、間違いなくこちらのお宅に招かれた客です! 念のために持ってきた招待状もあります! 通報だけは勘弁――」
「私ですよ、御早さん」
勇貴が両手を上げて情けない言い訳を並べながら振り返ると、そこには黒紅色の長い髪をかき上げる女性の姿があった。
「お前は……天阪姉! なぜここに!?」
自分でそう言ってから、勇貴はバカなことを聞いたと思った。
「なぜ、って……一応、私はここに住んでいるので」
天阪 弦羽が真顔で当然の答えを返してくる。
「御早さんこそ、どうされたんですか。その手に持っている袋は……菓子折りですか? どうしてそんなものを――」
「お前のお母さんから呼び出されたんだよ」
「えっ……! 母と何の話を……?」
「俺も知らん。手紙には自分が時乃の母親だと言うこと、そして直接会って話がしたいとしか書いてなかったからな。……だが、天阪姉にだって大体の予想はついているんじゃないか」
「……そうですね。ところで、いい加減その天阪姉、という呼び方はやめてくれませんか」
「お姉ちゃんと呼んだ方がいいか」
「お姉ちゃん言うな。普通に弦羽と呼べばいいでしょう」
「じゃあ、弦羽。よかったら、案内を頼めないか?」
「え? ええ、構いませんよ。……それにしても」
「ん? 何だよ」
「《先祖返り》は犬と会話できる能力を持っていたなんて……私、知りませんでしたよ」
からかうように微笑を浮かべて、弦羽が冗談を言ってみせる。
初めて会った時は冷たい印象の美人――と言った彼女のその姿を、勇貴は意外な思いで見つめていた。
「これは時乃にも教えてあげないとですね。御早さんがたぬきと楽しそうに話していた、と」
「やめてくれ、俺の威厳と言うものが……いや、そんなものは初めからなかったか」
弦羽の言葉を聞いた勇貴は天阪姉妹の不和が解消されたことを改めて実感して、少し気が楽になった。
「……ふふっ、では行きましょうか」
「ああ、頼む」
もし、自分が時乃のそばから離れることになったとしても、この姉がいるなら――そんなことを考えながら、勇貴は弦羽の後を追って歩き出す。
◇◇◇
「時乃は今日、御早さんが来ることは当然知っていますよね?」
現実離れした広さの天阪家の
「まあな」
「……なるほど。出かける様子もないのに、よそ行きのかわいい服を着て妙に凝った髪型にしていたのはそういうことですか」
弦羽は何やら一人で納得しているようだった。そして、広い廊下を歩いた先の扉の前で立ち止まる。扉を少し開けて中の様子を確認すると、後ろを振り向いた。
「では、椅子に掛けてお待ちください。私は母を呼んできます。あの子も……この場に呼んだ方がいいですか?」
勇貴はしばしの間、返答に困って考え込む。本当は母親と一対一で話をつけた方がいいのかもしれない。
しかし――
『勇貴さんは、私が守ってみせます……!』
時乃に頼んだ手前、彼女との約束を破るのは気が引ける。
「そうだな、弦羽。時乃を呼んでくれ」
「わかりました。それでは、失礼します」
「ああ、案内してくれてありがとうな」
「はい」
一礼して去っていく弦羽の姿を見送って、案内された部屋に入る。その扉が閉まると、静かな室内に壁時計の音だけが聞こえた。
勇貴は目についた黒いソファに座り、深呼吸する。
「はあ……」
(時乃と弦羽の母親、か。《祓う者》の一族の名門、天阪家の当主で物騒な異名で呼ばれていた……一体どんな人なんだ。並みの妖なら素手で
勇貴の脳内に黒い影のような妖を片手で掴み、豪快に握り潰す筋肉質の女性の姿が思い浮かんだ。
(よし、ここは俺もなめられないように妖の血を活性化させて威圧を……! いや、それはうんこ座りでガン飛ばして
そんなことを考えていると、不意に扉をノックする音がした。
「!」
弦羽が立ち去ってから、それほど時間は経っていない。彼女が母親と妹を呼びに行ったにしては早過ぎるのではないか。
とは言え黙っているわけにもいかないので、扉へ向かって返事をする。
「は、はい!」
「失礼します。入ってもよろしいでしょうか」
聞き覚えのない声だった。
時乃の柔らかい声でも、弦羽の落ち着いた声でもない、力強さと自信に溢れた大人の女性の声。
勇貴はソファから立ち上がって、扉の向こうにいる声の主に応じる。
「どうぞ!」
勇貴が返事をすると部屋の扉が開き、漆黒のワンピースを着た黒髪の女性の姿が見えた。
(まさか……!)
その女性は一礼して入室すると、ベテランの舞台女優を思わせる堂々とした立ち振る舞いで部屋の中央に進み出る。
肩にかかる長さの髪を軽く右手で払うと、真っ直ぐに勇貴を見据えて口を開いた。
「初めまして。本日はようこそお越しいただきました。私がお手紙を差し上げた、天阪
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