第15話 懐かれた男と、晴天の雷刃<3>

「……?」


 静寂。

 勇貴が覚悟していたような痛みも衝撃もなく、静寂だけがそこに残った。


「何だ? あの影は……妖はどこに行った!?」


 慌てて周辺を見回すが、影の姿は見えない。


「時乃! 今の妖はどうなったんだ!?」


「……」


 ポカンとした顔で勇貴の顔……いや、右腕を見ている時乃に尋ねる。


「おい、時乃!?」


「あ……すみません。今の妖は勇貴さんが倒した……はずです。もう気配はありません」


「……はあ? 俺が倒した、って? お前は何を――」


「あ、あの、勇貴さん。その手……何ともありませんか?」


「ん? 手がどうかしたか?」


 時乃が先ほどからジッと見つめている自分の右腕の方へと勇貴は視線を向けた。


「うおッ!?」


 そこには……手首の辺りまで不気味に黒く変色した、自分の右手があった。


「げっ、何これ!? キモッ! 何か元の俺の手よりもゴツくなっているし! 気持ち悪う!!」


 勇貴は思わず汚物のついた手を払うかのように右手を振り回してみるが、当然ながらそんなことは無意味だった。


「何なんだ、これ!? さっきの妖が俺の手に張り付いたのか!? それとも妖の体液みたいなものが……うおお、キモッ!!」


「お、落ち着いてください、勇貴さん」


「時乃! お前、これが何なのかわかるか!?」


「ちょっと見せてください」


 取り乱す勇貴をよそに、時乃は落ち着いた様子でその黒い手に触れた。


「! おいやめろ、時乃! お前にまでコレが移ったらどうするんだ!」


 時乃の細い指先で手の甲を触れられたり指を握られたりすると、彼女の指の感触が勇貴の黒く変色した手にも伝わってきて、くすぐったい。どうやら、皮膚や神経は正常に機能しているようだった。


「……右手の部分だけ完全に妖になっているみたいです。こうして触っているだけで、怖いくらいの強い妖気を感じます……」


「何だって? 妖になっている?」


「はい。先ほどの妖の襲撃に対して、勇貴さんの中の妖としての意識が身の危険を感じたことで……その力が目覚めたのかもしれません」


「ふーん……」


 黒い右手を眺めながら、その指を動かしてみる。

 どの指も勇貴の思い通りに動いた。右手が妖になったと言っても、自分の意思で動かせるようだ。


「ところで、コレどうやったら元の手に戻るんだ?」


 妖と化した右手首を軽く振りながら、時乃に尋ねる。


「えっ……? ど、どうでしょう。先ほど言ったように命の危機を感じて発現したのだとしたら、ある程度時間が経って緊張感が解ければ元に戻る……かもしれません」


「かもしれません、か……。まあ、《先祖返り》とやらの情報はほとんどないって言ってたしな」


「はい、すみません……」


「時乃が謝るようなことじゃないだろ」


 勇貴は妖の黒い右手をジッと見つめながら考えた。


(さっきの黒い影……妖も、この手なら倒せるわけか。……それなら)


「時乃。これからこの山に潜む残りの妖も倒しに行くんだろ? 向こうの林のずっと奥に、まだ何かの気配を感じる」


「え? 勇貴さん、妖の気配がわかるんですか!?」


「ああ、どうもそうらしいな。この場所にたどり着いたのも、この何かの気配を感じて来たんだ。……気味が悪いぜ」


「そうだったんですね……」


「それで、時乃。お前の妖退治に、俺も同行させてもらってもいいか?」


「えっ……? だ、ダメですよ、そんなの危険です!」


 やはりというか当然というか、時乃に全力で断られた。


「時乃。この黒い手を使えば、さっきの妖くらいの相手なら俺でも戦えるだろ」


「そ、それは……その妖の手の力は確かにすごいです。でも、その右手以外は……勇貴さんは普通の、生身の人間なんですよ!?」


「それは時乃だって同じだ」


「私たち《祓う者》は相応の訓練をしています! この山の妖はそれほど強くはないみたいですが、それでも一般人の勇貴さんを危ない目に合わせるようなことはできません!」


「足手まといになるつもりはない。もし、そうなったとしても……俺のことなんか気にせずに、お前は自分の目の前の敵を倒すことだけに集中して動けばいいんだ」


「そんな、勇貴さんを見捨てるなんて……できるわけありません。どうして、勇貴さんは妖討伐に同行したいなんて言うんですか?」


「お前の力になりたいだとか、身の程知らずなことを考えているわけじゃないけどな。ただ、この力のことを少しでも知りたいと思ったんだ」


「知りたい、ですか?」


「ああ。あの日から……今のところは体調もいいし、時乃が遊びに来てくれる間は、もし何かあったとしても相談に乗ってもらえる。だけど、ずっと時乃を頼って、アテにしているわけにもいかないからな。お前だって、いつまでもおっさんの相手をしたくないだろ」


「そんな、私は……」


「だからな。ほんの少しでも自分の身体に流れる妖の力ってものを理解して、自分の意思で何とかできるようになれば……そんなことを思っていたんだ」


「勇貴さん……」


「頼む、時乃。こんな機会でもないと、この力を試すようなことはないはずだ」


「もう……わかりました。私の近くから離れないでくださいね?」


「すまんな、時乃」


 ◇◇◇


 二日山の奥地、自分一人だけなら一生立ち寄るようなことがなかったであろう山道を、勇貴は歩いていた。


「ところで、時乃。お前、もう昼は食ったのか?」


「いえ、この山に現れた妖の討伐を完了してから食べるつもりです」


 前方を歩く時乃がチラリをこちらを見て答える。


「そうか。えーと、車の中に昼食用に買ったパンがあるんだが……少し多めに買ったから、よかったら時乃も食べるか?」


「え? いいんですか?」


「ああ。お前が言う通り、まずは妖を片付けてからだな」


「はい!」


 妖らしきその気配はずいぶん遠くに感じる。本職の時乃はどうかはわからないが、勇貴はまだ気を張るような場面ではないと考えながら周辺の景色を見回す。

 そこに突然、黒い砲弾のようなものが前方から飛んできた。


「っ!」


 抜刀と同時に時乃が黒い砲弾……妖を真っ二つに斬り裂く。二つに分かれた妖の影は勇貴の前で崩れるように消えていった。


「時乃! 無事か!?」


「はい! 勇貴さんは?」


「大丈夫だ! 今のは……俺たちが近づいていることが向こうにバレている、ってことか!?」


「そうですね……急ぎましょう! 勇貴さん、走れますか?」


「えっ……お、おう!」


 運動不足の勇貴はすでにかなり足に疲れがきている上に、足場のいいとは言えないこの山道を走るのか……と一瞬思ったが、勢いでそう答える。


「では、行きます!」


 軽やかな足取りで先行する少女の背中を、普段走る機会などないおっさんは、必死に追いかけた。


(くっ……若い、っていいな……!)


 その間にも前方から時乃たちを狙撃でもするかのように、高速で飛来する妖が襲ってきた。

 それらを《祓う者》、天阪 時乃が霊剣を無駄のない動きで操り、撃ち漏らすことなく一撃で仕留めていく。


(時乃……やっぱりすごいな、こいつは……。俺のこの手の出番なんてないかもな)


 妖化した自分の黒い右手を一瞥いちべつして、勇貴はそんなことを思った。

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