第9話 憑かれた男と、疲れた少女<9>

 ▼▼▼


「俺はお祓いが終わったら、お前が泊まるホテルの宿泊代を出してやると言ったはずだぞ! それなのにお前は、さっきから俺の家に泊まる約束をしたなんて話を何度もした上に、今度は風呂――」


「勇貴……さんっ!」


 天阪 時乃がいきなり勇貴に抱きついてきた。


「うおっ、時乃ッ!?」


「よかった……戻って来てくれた……」


「ど、どうした!? これもお祓いの一環なのか!?」


「お祓いは……終わりました。勇貴さんが私の声を聞いてくれたから……」


「そうか、そりゃよかった――」


 何気なく周囲の様子を見渡した勇貴の目に、地面に開いた大穴が映った。


(な、何だアレは!? さっきまでは、あんなものはなかったはずだ! 一体何があったんだ!?)


「勇貴さん、私……怖かったです……」


 消え入りそうな声で、時乃がそう言った。


「怖かった?」


 勇貴の胸に顔をうずめる時乃の小さな肩が、微かに震えていることに気付く。


「はい。このまま……勇貴さんが戻って来なかったら……ううん、そもそも御早 勇貴という人は妖の擬態した姿なのかもしれないと思って……すごく怖かった」


「時乃……」


「それに妖になった勇貴さんは私の想像以上に強くて、自分の手には負えないんじゃないかと思って……私はほんの一瞬でもあなたを見捨てて、自分だけが助かる方法を考えてしまったんです」


「……」


「私は……勇貴さんに憑いた妖を祓ってみせる、なんて言ったのに……《祓う者》失格です、ごめんなさい……」


 勇貴の身体に抱きつく時乃の腕に力が入るのがわかった。


「……そうか。正直、俺にはお前があの黒い剣を見せてくれた後からの記憶がほとんどないんだが……ずいぶん、苦労させたみたいだな」


 この小柄な少女の頭でも撫でてその労をねぎらってやりたい衝動に駆られるが、それを理性とやらで何とか抑える。


「はい……」


「時乃。そろそろ街へ戻らないか? それで、帰り道に何があったのか詳しく教えてくれ」


 ◇◇◇


 市街地へと戻る道のりを、勇貴は妙にスッキリとした気分で歩いていた。

 河川敷へ向かう時にはなかった激しい疲労感が身体にあるものの、ここ最近の彼を悩ませていた、頭の中心に居座る黒く重い塊はきれいに消え去っていた。


「《先祖返り》か……」


 時乃から先ほど聞いたその言葉を反芻はんすうする。


「そうです。勇貴さんのご先祖様に、その……妖と交わった方がいて、その血脈が現代の勇貴さんに突然変異的に強く現れた結果、一時的にあなたは――」


「化け物になってお前と戦っていた、か……」


「はい」


 数時間前の御早 勇貴にこんな話をしても、絶対に信じようとはしなかっただろう。

 しかし、河原で見たあの大穴や、忌まわしい頭痛のタネが消えた事実……何より、この天阪 時乃という少女がウソを言うような子ではない、そんな意識が今の勇貴には芽生えていた。


「まあ、何か黒い檻みたいなものに閉じ込められて……そこで時乃の声が聞こえる夢を見ていたような気はするな」


「えっ! その時の記憶があるんですか……? わ、私が何て言っていたか覚えていますか!?」


「ああ。さっきも河原で言ったけどお前が家に泊めてくれる約束をしたとか、していないとか、そんなことを言っていたような……」


「あ、あれはですね! 勇貴さんの人としての意識を目覚めさせるために仕方なく……!」


「ふーん」


「あの、それ以外で私が勇貴さんに何か言ったか覚えていませんか?」


「さあな。何か言ったのか?」


「いえ、覚えていないのでしたら、それでいいんです!」


「そうか? ところで……よくあることなのか? その《先祖返り》ってやつは」


「え? よくあったら困りますよ。私が知る限りでは、古い書物でしか見たことがないです」


「そうか」


「ただ……《先祖返り》を起こして妖になった人は、そのほとんどが人に戻ることはなかったと言います」


「……」


「そして、完全な妖となった人は……《祓う者》の手で祓われたと伝わっています。だから、記録としては残っていないだけで……もしかすると現代でも妖になった人が、どこかで密かに祓われているのかもしれません」


「おいおい、怖いこと言うなよ……」


 勇貴は思わず息を飲んだ。


(俺は……この子、天阪 時乃に命を助けられたということか)


 隣を歩く、自分よりも年の離れた小柄な少女の横顔を見る。


「……勇貴さん?」


 その視線に気づいたのか、時乃が顔を向ける。


「あ……時乃。お前はその、ケガとかはしてないのか? さっきの話だと、化け物になった俺がお前を襲った、って……」


「私の方は大丈夫ですよ。勇貴さんこそ、その頬の傷は……痛くないですか?」


「え? あ、ああ、これか」


 勇貴は少し痛みが残る左頬を押さえる。


「まあ、少しだけ痛みはあるが、もう傷は塞がっているみたいだな」


「肉体が妖化した時に受けた傷なので、治りが早いのかもしれませんね」


「なるほど」


「……でも、そもそもその傷を負ってしまったのは、私が見立て違いをしたせいです。ごめんなさい、勇貴さん……」


「ん? 気にするなよ、これくらい」


「これくらい、って……」


「時乃。今日……お前が俺を見つけてくれなかったら、俺に話しかけてくれなかったら……近いうちに、俺はあの夢のように人を食らう化け物になっていたはずだ」


「……」


「そのことに比べたらこんな傷くらいなんてことはないさ。俺が今、御早 勇貴としてこうやって歩いて、しゃべっていられるのは、天阪 時乃……お前のおかげなんだよ」


「勇貴さん……」

 

「だからな。もう……消えてしまいたいなんて、言うなよ」


「あ……」


「今日の俺みたいに、時乃を必要としている人は……必ずいるはずだからな」


「……はい。ありがとうございます、勇貴さん……!」


 時乃はそう言ってうつむいた。


「何でお前が礼を言うんだよ。礼を言うのは俺の方で――」


「だって……ぐすっ……!」


「うおぃ! なぜ泣く!? ガラにもないクッサイセリフを言ったのが逆効果だったのか!?」


「そんなことは……ううっ……」


(……人間の感情、考え方なんてほんの少しのキッカケで変わる時は変わるものだ。とは言え、俺なんかの言葉一つでこの子の抱えている問題が簡単に解決すると思うのは希望的観測、って奴か)

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