第7話 憑かれた男と、疲れた少女<7>

 ▼▼▼


 天阪 時乃は数メートル離れた場所に立つ、御早 勇貴を目線で牽制しながら、自分の失敗を噛みしめていた。

 正確には今の彼は自分の知る勇貴ではなく、妖に肉体を乗っ取られた者だということは……その目を見ただけでわかった。


 勇貴に憑いた妖を祓う前に、彼へ丁寧に説明することを選んだのは……それが正しいと思ったからだ。

 だが、燦令鏡の輝きを見たせいで《彼》は、彼に憑いた妖は――目覚めてしまった。


 燦令鏡の持つ特性を有効活用するなら、先ほど勇貴が言っていたように不意打ちで妖だけを斬ってしまえばそれで終わっていたはずだ。母や姉なら、おそらくそうしていたに違いない。


 しかし、時乃にはできなかった。

 見ず知らずの自分のことを心配してくれた、この男性をいきなり霊剣で斬りつけるなどという真似は……いくら燦令鏡の持つ特性を知っていてもできるものではなかった。


(やっぱり、私は半人前だな)


 時乃は心の中で自嘲しながら、霊剣を構える。


(でも、心配しないでください、勇貴さん。あなたは……絶対に私が救ってみせます!)


 時乃が今まで実戦で戦った相手は低級の妖ばかりで、人に憑くようなレベルの妖と戦う機会は初めてだった。

 それでも、恐怖などは全く感じていない。あの母と実戦形式の稽古で対峙した時の緊張感に比べたら、並大抵の妖では動じない自信がある。


 それとは別に、この妖に憑かれた男性……御早 勇貴に刃を向けることに抵抗があったが、それは初めから覚悟していたことだった。


 勇貴……いや、妖との距離を計り、浅く息を吐くと……時乃は地面を強く蹴って前方に跳んだ。

 身体を捻りながら燦令鏡を振り上げる。


「!」


 妖がそれに反応して身をかがめるのが見えた。


「……ふっ!」


 闇の中で燦令鏡の刀身が舞う。

 だが――


(……かわされた!?)


 微かに手応えがあったものの、時乃の放った斬撃は妖を仕留めることはできなかった。


「ヴヴゥ……ッ!」


 少し離れた場所で姿勢を低くして時乃を睨みながら、怒りの声を上げる妖の姿があった。


(思ったより速い……)


 人に憑くだけの能力を得た時点である程度、成長した妖なのは間違いないのだが……やはり、そう簡単に祓える相手ではないようだ。


(!)


 しかし……そのこととは別に、時乃は信じられないものを見てしまう。


「グウゥッ……」


 妖の左頬に現れた、一本の赤い筋……そこから鮮血が流れ落ちた。


(そんな……どうして……!?)


 思わず、燦令鏡の薄桃色の刀身に視線を向ける。


(この剣は妖だけを斬る霊剣。どうして勇貴さんの身体に傷が……!?)


「ガアッ!」


「!」


 妖がうなり声を上げて猛然と向かってくる。

 時乃は冷静にその動きを見据えて、ギリギリまで引き付けたところで振り下ろされた妖の拳をかわした。

 さらに無意識に反撃を加えそうになるが、妖の顔に自分が負わせた傷が目に入り、とっさに右へと飛び退く。


 時乃がさっきまで立っていた場所に妖が放った拳が叩きつけられると、轟音と共にその衝撃が地面を通して、彼女の足元にまで伝わってきた。

 地面が大きくえぐられ、闇夜に舞い上がった土や植物の根が、ボトボトと地面に落下する。


(そんなっ……!?)


 妖に憑かれた人間は、通常では考えられないような力を発揮する。

 それは自分の身体を傷つけないように、人の脳が無意識に抑えている力を妖が解放してしまうからだ。


 だが、この妖が今見せた力はそんなレベルのものではなかった。

 明らかに人の身体能力を超えたその力は、彼が人間ではなく妖そのものだと時乃に言っているようだった。


(勇貴さん……あなたは一体……?)


 時乃はとっさに記憶をたどった。

 初めてこの霊剣を授かった日のことを。まだ、母と仲がよかった頃の記憶を。


 妖がゆっくりと立ち上がり、時乃の方へと顔を向けたのが見える。

 時乃もまた、無言で霊剣を構えた。


(この燦令鏡は妖だけを斬る、生き物の肉体を傷つけない霊剣……)


 だが、何事にも例外があるように、この剣の特性にも例外はある。

 燦令鏡で斬った相手が血を流すことがある、その可能性は二つ。


 一つは、斬った相手が実体化した妖であること。

 力を蓄え実体化し、受肉した高位の妖の身体を斬りつけると……その妖が食らった生き物の血が流れるという。


(でも、それは……)


 その可能性は考えたくはなかった。


 御早 勇貴という人間など、初めからこの世に存在しない。

 彼が自分にかけてくれた数々の言葉が、妖がその正体を隠すための偽りのものだったとしたら……今度こそ、自分は立ち直れなくなる。


(それなら……《先祖返り》)


 大昔、人と実体化した妖が交わったことにより生まれた、妖の血と力を持った人間。その血脈は時と共に、薄くなっていったはずだが……時に、その血を色濃く受け継ぐ者が生まれることがあるという。

 そして、彼らの中にはある日突然、妖としての本能に目覚めてしまう者が現れる。正気を取り戻し、再び人として生きた者もいれば……完全に妖と化し、《祓う者》の手で祓われた者も――


(勇貴さん、あなたはそうなんですよね? 本当の妖なんかじゃないですよね……?)


 そこまで考えたところで時乃はある可能性に思い至り、背筋が凍りつく。


 もし、自分が……効率や確実性を重視して彼を問答無用で斬っていたなら――


 出会ったばかりの自分に美味しいラーメンを食べさせてくれた、自暴自棄になっていた自分に本気で怒ってくれた、御早 勇貴。


 そんな彼を……一歩間違っていれば、自分の手で斬り殺していたのかもしれない。

 血まみれで倒れて動かない彼の姿が、一瞬脳内に浮かんだ。


(……っ!)


 そんな時乃の様子などお構いなしに、一歩、一歩……しかし、確実に妖が間合いを詰めてくる。


 時乃は高位の妖が使うと言われる、精神攻撃に抵抗するための技法を思い出し、ゆっくりと深呼吸をする。そして、吐息と共にそのまわしい想像を振り払った。


 皮肉なことに《祓う者》としては未熟な時乃の甘さが、結果的に彼と彼女自身を救ったのだった。


(ううん、違う。今回だけは、私の判断が正しかった……そう思ってもいいですよね? 勇貴さん)


 御早 勇貴の正体が実体化した妖なのか、あるいは《先祖返り》した者なのか、それは時乃には判別できない。

 仮に《先祖返り》だったとしても、自分の手で彼を元に戻せるのかはわからない。


(それでも……!)


 やるしかない、と時乃は思った。今、この場で御早 勇貴を救うことができる者は、自分だけなのだから。


「勇貴さん、あなたは一時的に心も身体も妖と化しているだけ……そうですよね? だけど、安心してください。私が必ず……元のあなたに戻して見せます! そして、その後は勇貴さんのお家にお泊りするんです! そう約束しましたよね!」


 自分を鼓舞するように、時乃はその覚悟を口にする。


「……チガ……ウ」


「えっ?」


 妖と化した勇貴が、今……初めて人の言葉を口にした、ような気がした。

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