大人編
あの日のお母さんは幻だったのだろうか、と何度も思うことがあった。たった一度だけ私におむつを履かせてくれ、ガラガラであやしてくれた。あの日以降、一度もそんなことをしてくれたことはないし、話題に出たこともない。あの日見た幻だったかもしれないと振り返るたびに。素子はクローゼットの奥に顔を突っ込んだ。
…たしかに、おむつがある。
素子は週末になると部屋にこもり、内側からカギをかけるようになっていた。クローゼットを開き、奥の方に押し込んだ段ボールを覗くと、しわくちゃになったパッケージの中で3人の女の子が変わらず微笑んでいた。一枚だけ引き抜こうとしたが、そのまま袋もくっついてくる。どうやら最後の一枚だったらしいが、素子には高鳴る胸を押さえることができなかった。
「もとちゃんね、じぶんでね、おむつはけるんだよ!」
1階にいるお母さんに聞こえないよう、細心の注意を払う。そんな中でも最大限かわいい声で幼児になれるよう、素子は声を絞り出した。いつも聞いている自分の声のはずなのに、「おむつ」という言葉が耳に届くと一層胸が高鳴る。素子は急いで履いていたズボンとパンツを脱ぐと、部屋のピアノの方に向かって放り投げた。見事に椅子の上に着地したようだった。最後の一枚になったサクランボ柄のおむつに大事そうに足を通す。そのままベッドに潜り込むと、声が漏れないように掛布団に顔をうずめて、精いっぱいの声で赤ちゃん言葉をしゃべった。
「お姉ちゃん」、「ねえね」と呼んでいた同級生は、いつしかみんな結婚して、子供を持つ子も出てきた。たまに独身のもの同士集まって飲み会をすると、「お姉ちゃん」から、「お母さん」に私の呼び方が変わっていた。幹事や連絡係を買って出たり、深酒した子を家まで送ることも度々あった、大人になってもこのキャラは捨てられないんだろうか、とビールを口に運びながら苦笑する。
「素子先輩は、結婚とかしないんですか?」
「そうだね~、イイ人がいればね~」
「先輩!目が遠いところ見てますよ!」
今日は卒業した音大の懇親会に参加している。親へ一番感謝していることと言えば、勉強もスポーツもパッとしなかった私に、ピアノを続けさせてくれたことだと素子は思う。音大に進学した素子は、ピアニストにこそなれなかったものの、地元でピアノの先生として生徒たちと楽しい毎日を過ごすことができている。
「出会いとかないんですか?」
「イケメンの成人男性がピアノ習いに来るなんて、横浜がソフトバンクに勝つくらい可能性が低いのよ」
後輩の佐知はワハハと豪快に笑い、素子はぐいっとビールを喉の奥に押し込んだ。一度だけ男性が習いに来たこともあったが、結婚式のサプライズで弾けるようになりたいとのことで、レッスンが始まる前から脈は一ミリも感じられなかった。
「でもそろそろ赤ちゃんほしいとか思いません?」
「さっちゃんねぇ、それ一番私にダメージあるやつだから」
友達から子供が生まれた旨の連絡をもらうことも多くなった。笑顔のお母さんと、まだ表情もはっきりしない赤ん坊。私もお母さんになりたい、そんな気持ちは素子には毛頭ない。
……私はね、赤ちゃんになりたいの。誰かに甘えたいんだ…
心の中で、誰にも言えない本音をつぶやく。最後のムーニーマンをわざとおしっこで汚した後、素子はついに自分でおむつを買い求めるようになっていた。中学生になるとお小遣いを溜めてこっそりドラッグストアに買いに行ったり、どうしても欲しいモノがあるときは、小さい頃から集めていたマンガを売ったりもした。高校時代に買ったもので一番高価だったのは、海外製のロンパースだ。その時ばかりは、当時好きだったアイドルのグッズまでいくつか手放して、ようやく購入できた。大学生、社会人になって多少お金が自由に使えるようになると、素子の赤ちゃんグッズ収集はさらに加速していった。
「絶対に部屋に呼ばない先輩」と後輩から言われていたというのは、佐知から聞いた。今でも素子のワンルームは、一台の電子ピアノ以外は、おむつ、ベビーサークル、大人サイズのベビーベッド、おもちゃが溢れかえり、知り合いには絶対に見せることのできない部屋が出来上がってしまっている。
かわいい後輩の質問攻めを華麗にかわしているうちに、段々とお酒の量が多くなっていく。普段は誰かを介抱することの方が多いが、知らず知らずのうちに素子の意識は遠のいていった。
次に素子が目を覚ましたのは、佐知が慌てた様子で素子の体をゆすっていたからだった。
「先輩!ちょっと出ちゃってます!早くカギとってくださいよ!」
目の前がぼんやりかすんで、何が起こっているのかよくわからない。素子は、なぜかお風呂に入っているような温かさを感じていた。慌てた様子の佐知が素子のカバンの中を探っていたが、財布を盗っていくわけもないだろうと、私はそのままボーっと佐知の様子を眺めているだけだった。
一度意識が遠のいて、次に目を開けた時には、素子の部屋のカギを開けて、玄関に立ち尽くす佐知の姿が見えた。さっきまで泥酔していた素子は、背筋が凍る感覚を覚え、一瞬で眠気と酔いが覚めるのを感じた。
「さっちゃ…、ちょ、ま…!」
上手くろれつが回らない。佐知は一度だけ素子の方を振り返り、もう一度視線を部屋の中に戻す。しばらくきょとんとした後、平静を装いはじめた。
「先輩、とりあえず家に入りましょ。着替えてシャワー浴びないと」
その言葉で、はじめて自分の体に何が起きているのかに気づく。温かく感じていた下腹部は、しばらく夜風に晒されてひんやりと冷たさを感じる。素子は十数年前の朝を思い出していた。あの日のおねしょ…、あれと同じだ。履いていたフレアスカートは、玄関前の廊下にできた黒いシミをすべては隠せていない。途端に顔から火が出るような恥ずかしさを感じるが、お酒の力でうまく立ち上がれない。
「先輩、ちょっと肩貸すんで。立てますか…?」
腕を引き寄せられ、なんとか玄関の前の立つ。
「さっちゃん、ごめんね…」
なんとか返事をするが、素子の頭の中は部屋の中にあふれるものを、なんと言い訳するかでいっぱいになっている。
2人で玄関に入り、ようやくドアを閉める。玄関から廊下を数歩進んだところで、佐知が何かに躓く。
「先輩ごめんなさい、ちょっと蹴っちゃって」
佐知は廊下に積まれた子供用の紙おむつのパッケージを元の場所に戻す。素子は何も見なかったフリをして、そのまま脱衣所に向かった。
「ホント、さっちゃんごめんね」
「いいですよ、先輩はここまで酔っぱらうなんて珍しいですし」
どことなく、いつもよりよそよそしさを感じる。この部屋を見て一体何を思っているのだろう。
「シャワー終わるまで部屋で待ってますね。心配ですし」
正直早く帰ってほしいとも思ったが、家まで送ってくれた後輩にかえれとは言えない。「ありがと」とだけ小さい声で返事をして、素子はお風呂のドアを開けた。
「せんぱーい!これ、もしかしてコレ初代のプリキュアのグッズですか!?」
シャワーで汗とおもらしの痕跡を流しながら、ずっと部屋のことをなんて言い訳しようと思い悩んでいた。実は隠し子が…、シングルマザーなの隠してて…。何をどう繕っても、大人用サイズのベビー服やおむつ、グッズを誤魔化す言葉は浮かんでこない。もう正直に話して嫌われよう、と心に決めて脱衣所から出てきた。
そんな素子の暗い気持ちを裏切るように、佐知は笑顔で素子のコレクションを眺めている。
「私中学になってもプリキュア見てたんですよ~。すっごいお兄ちゃんとかにバカにされて」
「そ、そなんだ…」
「先輩もニチアサ好きなんですか?」
「え、あ、うん、まぁ…」
「中学生になったらこういうおもちゃとか買ってもらえなくて…。だからといって大人になってから買うのもちがうなぁって思ってたんですけど、コレ見たら私も欲しくなっちゃいました!」
佐知は嬉しそうに笑いながら部屋を眺める。もしかしたら気をきかせて話を合わせてくれているのかもしれない。素子は逆に申し訳なく思い、すべて白状することにした。
「あの、さっちゃん…」
無邪気な笑顔の佐知が振り返ると、深刻そうな素子が俯いていた。
「先輩…?」
「ちょっと、びっくりしたよね?私、今まで誰も自分の部屋に人いれたことなくて…」
改めて佐知は部屋をぐるっと見渡し、素子の方に向きなおした。
「えっと、まぁ、そうですね…。最初こっそり赤ちゃん育ててるんじゃないかって思ったんですけど、さすがに違いますよね…?」
佐知は、部屋干ししているおむつカバーやロンパースの先を指でさっと撫でる。
「先輩が、着るんですか…?」
「うん、そう…」
しばらくの間沈黙が流れる。気まずさを感じた佐知が、なんとか言葉を繋ごうとする。
「コスプレ、ですか…?」
「ん~、まぁ違うってことはないんだけど…」
また沈黙が流れる。素子は意を決した。
「さっちゃん、赤ちゃんプレイってわかる?私ね、実は昔から赤ちゃんになりたいって思ってたんだ。おむつ履いたり、おしゃぶりしたり。ごめんね、おかしいよね。気持ち悪いって思ったでしょ?」
ため込んでいた言葉を一気に吐き出した。最後の方は言葉にならず、先に涙がこぼれた。それを見て佐知はおろおろするだけだった。何もできず、素子の傍に寄り、しゃくりあげて泣き出した素子の背中を懸命にさすった。
「ウッ…ヒック…ごめ、ホント…」
まだ素子の言葉は出てこない。感情があふれ出し、上手に気持ちを言葉で表せない。
佐知は、背中をさすりながら話始めた。
「先輩、全然おかしくないですよ。私だって、仕事で失敗したときなんかは、赤ちゃんになってぜーんぶ忘れたいって思うことありますもん!」
素子は黙って佐知の話を聞いている。
「それに、先輩っていっつもお姉ちゃんみたいにしっかり者キャラだったじゃないですか。私実はずっと心配してたんです。先輩って誰かに甘えたりすることあるのかなって」
また長い沈黙が流れる。
「私じゃ、ダメですかね…?」
すでに泣き止んで俯いたまま体を固くしていた素子は、意外そうな表情で佐知の方を見る。
「今日は、私がお姉ちゃんだよ?もと、ちゃん…?」
先輩をちゃん付けで呼ぶなんてことは佐知にとってもはじめてのことだった。素子は、目に涙を溜めたまま、両手を広げて「おいで」と言った佐知の胸に飛び込んだ。また言葉にならない声をあげ、むしゃぶりつくように何度も顔を佐知の胸に押し付ける。
「ヨシヨシ、もとちゃんはイイ子だね。いままでたくさんおねえちゃんやってきたもんね。たいへんだったね。きょうはもとちゃんのわがままぜーんぶねえねがかなえてあげる!」
さっきまでの様子を伺うような声色は消え、完全に幼児を扱うような話し方になる。佐知は音大を卒業してからは、ヤマハの幼児音楽教室の先生をやっている。子供の相手はお手の物だ。
「もとちゃん、ねんねするまえにおきがえしようね」
佐知は部屋干ししていたおむつカバーとロンパースを手に取り、ソファに横になっておしゃぶりを吸う素子の横に座った。ベッドの横にはカラーボックスが並んでおり、そこに置かれた紙おむつのパッケージからテープタイプのおむつを一枚引き抜いた。同時にその横のパッドをとっておいた。
脱衣所で見繕ったハーフパンツとパンツは佐知の手でさっさと脱がされてしまった。
「もとちゃん、ここもきちんとあかちゃんなんだね!えらいね~」
佐知が素子の長い髪をなでながら下半身を確認すると、素子の顔が一層赤く染まる。ピアノ教室では優しくて頼りになる先生も、家に帰ればおむつだけを身に着けて、大人の言葉は一切使わない。もちろん秘所の毛も必要ない。
「おっきいんだね~」
佐知は手元で大人用の紙おむつを開く。子供用のおむつは小さくてかわいいが、大人用ともなると大きさの方に目が行く。一度おむつを置いてあるカラーボックスの方へ行って、パッケージの説明を見ながらおむつの当て方を確認した。慣れない手つきでパッドを重ねておむつのセッティングをする。初めての佐知のために、素子は自分でお尻をくっと上げてサポートした。
「もとちゃんね、じゃあおむつするよ。さっきみたいにおもらししたらこまるもんね」
1時間ほど前の痴態を思い出してまた素子は顔を赤らめる。何か言い返そうとしたが、心まで幼児に退行した素子には、まともな言葉が出てこなかった。
「いあうもん!」
違うもん!と言ったつもりだったが、舌足らずの幼児のような言葉になる。
「もとちゃん、いいんだよ。あかちゃんはおむつよごすのもしごとなんだよ~」
ふたたび佐知が素子の頭をなでると、ふっと眠気が来るのを感じた。佐知はすっと立ち上がると、部屋のピアノの前に立ち、アナログのメトロノームにそっと触れた。カチッカチッと小気味良い音を立てて時間を刻みだした。佐知は素子のところへ戻り、メトロノームの音に合わせて、おなかをトントンと軽く叩き出した。何十年も聞きなれたメトロノームの音は、素子にとってのお母さんの心臓の音のようだった。
「もとちゃん… もとちゃん…」
佐知が歌うように素子の名前を呼んだが、素子の意識はすでに深い眠りの中に陥っていた。
翌朝目を覚ますと、すでに佐知は起きていた。
「朝になっても、先輩じゃなくてもとちゃんでいいよね?」
「うん!」
素子は昨日とは打って変わって、素直な表情で頷く。
「もとちゃん、ちーでたかなぁ?」
昨日なら赤面して俯いていただろう。
「もとちゃんね、ちーでたの!」
素子はニコニコと笑って昨日当ててもらったおむつを指さす。
「もとちゃん、ちーいえたね!えらいね~」
佐知は何度も素子をぎゅっと抱きしめて、長い髪を梳かすようにして頭を撫でた。
「きょうからずーっと、わたしがもとちゃんのねえねでいい?」
6年生のあの日、お母さんは「今日だけね」と言った。その言葉の通り、あれからおむつを履かせてもらうことも、トントンしてもらうことも一度もなかった。佐知は、「きょうからずーっと…」たしかにそう言った。
「うん!これからずーっと!」
赤ちゃん返り はおらーん @Go2_asuza
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