赤ちゃん返り

はおらーん

少女編


「ねえ!モトコちゃん!また紗世ちゃんが男子に泣かされたの!ちょっと一緒に言い返しに行ってよ!」


「え、うん…」


またこれだ。なにかちょっとした口論が起きたりすると、必ず私が矢面に立たされる。気が強いわけでもないんだけど、年の割にしっかりしていると言われるからか、友達の中ではなぜかお姉ちゃんポジションに収まっている。結局今日も男子と言い合いになって先生に怒られたのは私だった。本当に損な役回りだと自分でも思う。


私が小学校3年生の時、大きく生活が変わる出来事があった。家に帰ると、珍しくお父さんも早く仕事から帰ってきており、リビングに入るなり早く食卓につくように促される。


「あのね、モトちゃん。よく聞いてね」


お母さんは改まった様子で素子の顔をじっと見つめる。普段はあまり笑わないお父さんが、ニコニコとお母さんの顔を見ているのが印象的だった。


「赤ちゃんができたの。女の子。モトちゃんね、おねえちゃんになるんだよ」


私はずっと兄弟がいる同級生がうらやましかった。教室ではお姉ちゃんがうるさいだの、弟が生意気だの文句を聞くことの方が多い。それでも家に帰っても話をしたり、一緒にゲームをするような兄弟がいるっていうのは楽しいだろうなぁとずっと思っていた。お母さんの言葉に、一瞬どう反応していいかわからず言葉が出てこなかった。


「…ホント?わたしお姉ちゃんになるの…?」


「そうだよ。おねえちゃんらしくいい子になれるかなぁ?」


「うん!私いいこになるよ!いっぱい面倒みてあげる!ねぇねぇ、私も一緒に名前考えてもいい?」


嬉しそうに話す素子を、お母さんもお父さんもニコニコして見守ってくれていた。4月になって素子が4年生になったと同時に、お姉ちゃんにもなった。4月に生まれたから、さくらと名付けた。素子が「お花の名前にしたい」と言ったのが採用された。はじめは甲斐甲斐しくさくらのお世話を手伝ったりしていたが、段々と素子の気持ちは傾いていく。


「ちょっとモトコ!お姉ちゃんなんだからしっかりしてよね」


いつからだろう、お母さんが素子を注意するときには、必ず「お姉ちゃんなんだから」と枕詞がつくようになっていた。



……お姉ちゃんなんだから。お姉ちゃんなのに。妹のためにしっかりしないと。さくらに笑われちゃうよ。


お母さんも悪気があるわけでない、と素子も理解はしている。それでも、なんでもかんでも妹のさくらを引き合いに出されると素子の不満は高まるばかりだった。朝起きても、家に帰ってきても、いつでもお母さんはさくらを抱っこして、構ってばかりいる。


……、私も…。



「素子、買い物行くから着いてきてくれる?」


「うん、いいよ。ついでにお菓子も買っていい?」


「もう。お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」


またコレだ。お姉ちゃんとは我慢する生き物なんだろうか、と純粋に疑問に思う。お母さんにひっついて買い物に着いていった先はドラッグストアだった。いろんな日用品をカゴに入れていく間に、素子はこっそりチョコレートを忍ばせる。あらかた必要なものを買うと、最後にお母さんはおむつコーナーに向かった。1歳のさくらはまだまだおむつが必要だ。


「そろそろLサイズかな~」


お母さんがサイズに悩む間、素子はカートにもたれかかりながら、他の商品を見ていた。


……スーパービッグサイズ…?


素子の視線の先には、小学生くらいに見える女の子がこちらを向いて笑顔で寝転んでいた。~35㎏の表記にくぎ付けになった。こないだの身体測定では、33㎏だった。素子でも十分に履けるサイズのおむつが売られていることに驚きを隠せない。


「素子、これ持って」


素子はLサイズのパッケージを受け取る。さっき素子が見ていたパッケージと同じメーカーだ。お母さんがカートを押し、素子は両手にトイレットペーパーと、さくらの紙おむつを持ってレジに向かった。素子がボーっと大きなサイズの紙おむつを眺めていたことに、お母さんも気づいていた。


「さっちゃん、おむつかえようね~」


晩ごはんを食べてリビングでくつろいでいると、お母さんの声が聞こえる。リビングの端にタオルケットを敷いて、そのうえでさくらのおむつを交換し始める。さっきお店で見た大きいサイズのおむつのことがふっと頭をよぎる。


……赤ちゃんって、ぜーんぶお母さんまかせでいいよなぁ。


一瞬、さくらみたいに自分もお母さんにおむつを履かせてもらうシーンが浮かび、ブンブンと頭を振る。6年生にもなっておむつを履くなんておかしいと思いなおし、またテレビに意識を集中させる。


「はーい、バンザイして?さっちゃんおきがえできてえらいね~」



……こないだ90点のテストを持って帰ってきたときだって、「次は100点ね」って言われただけだった。着替えただけで褒められるって…



お母さんとさくらのやり取りがあまりに気になるので、リビングから出て自分の部屋へ戻る。なんとなく悶々とした気持ちのままベッドに横になると、そのまま寝入ってしまっていた。




…!?


素子は何年振りかわからない違和感で目が覚めた。小学校に入ってから何回かは記憶があるが、それはおそらく低学年の時だったと思う。時計に目を遣ると、もうすぐ起きる時間が迫っていた。どう考えてお母さんに怒られると思い、そのまま布団を被って動けずにいた。


「素子!早く起きなさい!」


タンタンタンと、お母さんのスリッパが階段を駆け上がる音が素子の耳にも聞こえる。足音だけでイライラしているのがわかる。ガチャッとドアが開き、掛布団が剥ぎとられると素子の恥ずかしい失敗がすべて露わになった。


「え、素子、どうしたの…」


薄ピンクのシーツは、素子のお尻を中心に灰色に変色している。パジャマのズボンもお尻から膝のあたりまで濡れているのがわかった。


「えっと、その…」


お母さんも一瞬何が起こったのかわからなかったようで、変な間ができた。一呼吸置いて雷が落ちる。


「おねしょ!?一体いくつになったのよ!6年生でしょう?」


小さな声で「ごめんなさい」と言うしかない。お母さんは床に落とさないようパジャマを脱ぐように素子に言い、シーツを剥がし始める。


「朝の忙しいときに、ほんっとに。さくらの朝ごはんもまだなのに。しっかりしてよね、お姉ちゃんでしょ。6年生になってもおねしょって、さくらに笑われるよ。さくらにお願いしておむつ借りてきたらいいのよ」


素子に言っているのか、ただの愚痴を独り言のように言っているのか判断できない。



…お姉ちゃんでしょ、お姉ちゃんでしょ、お姉ちゃんでしょ…


ただ素子の頭の中には、「お姉ちゃんでしょ」という言葉がぐるぐると回るだけだった。暗い気持ちのままシャワーを浴び、そのまま学校へ向かう。「モトちゃん今日暗いね?」と紗世ちゃんに聞かれたが、「うん」と返事するのが精いっぱいだった。


……おねしょしたから暗いんじゃない!お母さんの言い方が辛かったんだ!口を開けばさくらさくらって。私のことは?さくらだけがお母さんの子供なの?


赤ちゃんのお世話が大変なことは、いつものお母さんを見ていれば素子にでも十分理解できる。だからと言って、お姉ちゃんはだからといつも叱られ、我慢を強いられるのだろうか。家に帰りながら、そんな考えが何度も浮かんでは消えていった。


「素子おかえりー!」


「……」


朝の苛立ちはどこに行ったのか、お母さんは機嫌良く素子を迎え入れる。まだ気持ちを整理しきれない素子は、お母さんの声に一切の返事をせずに、ランドセルを背負ったまま自分の部屋に閉じこもった。晩ごはんに呼ぶ声も全部無視して、ベッドの上で布団にくるまっていた。朝汚したシーツは新しいものに取り換えられている。


気付かないうちにウトウトしていたようだったが、階段を上る足音で気が付いた。時計は夜9時を少し回っていた。タンタンタン。お母さんのスリッパの音だが、朝の時とは音が違う。イライラのこもった足音ではなく、むしろ穏やかな雰囲気すら感じられた。ガチャッとドアが開く音がして、素子は被っていた布団をさらにギュッと強く握りなおした。


「モトちゃん」


「……」


「いいよ。お母さんが一方的に話すから、よかったら聞いててね」


どうやら怒ってはいないらしい。素子は布団を被ったままお母さんの言葉に耳を傾ける。


「お母さんね、ちょっと反省したの。最近ずっとさくらのことにかかりっきりだったでしょ?もとちゃんのこと、きちんと見てなかったと思うの。だから今朝のおねしょのことも…」


おねしょという言葉に素子もつい反応してしまう。


「今朝のおねしょのこともね、きっと何か言いたいことがあったんじゃないかって。お母さんに何か訴えたいことがあるんじゃないかって。それなのにお母さん、素子のこと考えずにひどいことも言ったと思う」


お母さんの言葉が途切れたタイミングで、素子は掛布団を少しめくって顔を覗かせた。お母さんの目には涙が浮かんでいた。


「ううん、お母さん。私こそごめんね。いいお姉ちゃんじゃなくて…」


そこまで言って、素子の目から涙があふれだす。止めようと思っても、次から次へと涙があふれだす。


「わたし、お母さんが、ヒック…、お母さんがさくらばっかり…」


これ以上は言葉にならず、素子は声を上げて泣きじゃくり始めた。


「もとちゃん、ごめん。ほんとにごめんね…」


お母さんは泣きじゃくる素子をぎゅうっと抱きしめた。素子はお母さんの胸に顔を押し付けて、しばらくわんわんと泣き続けた。


「ホントはね」


素子は泣きはらした目でお母さんの顔をじっと見つめる。


「さくらがうらやましかったんだ…」


「そう。そうなのね」


お母さんは素子の言葉を否定せず、ニコニコしたまま素子に視線を返す。


「ずっとね、お母さんと一緒にいて、ヒック…、だっこしてもらって」


また素子の目に涙が浮かぶ。


「うん、いいよ。教えて?」


お母さんが促す。


「私もね、さくらみたいになりたかったの…!でも、そんなのおかしいよね?6年生にもなって、赤ちゃんみたいになりたいって。ちゃんとお姉ちゃんにならないと…」


「違うの、素子。お母さんが悪いの」


素子はハッとしたような表情でお母さんの顔を見つめる。


「もとちゃんは、お姉ちゃんである前にもとちゃんだから。もとちゃんの気持ち、お母さん知ってたよ」


素子は、お母さんがカゴとビニールのパッケージを横に置いているのに気付かなかった。


「それって…?」


「昨日買い物に行ったとき、何度も見てたでしょ?もとちゃんが学校に行ってる間にお母さん買ってきたの」


お母さんはスーパービッグと書かれたピンクのパッケージを膝の上に置き、中から一枚取り出した。


「うん、この大きさならもとちゃんも履けるよ?」


「え、おむつ…?そんな、でも…」


「いいから!もとちゃん、ひとりでお着換えできるかなぁ?お母さんと一緒に頑張ってみよっか?」


「うん…」


最初は恥ずかしがっていたが、お母さんにバンザイを促されたときにはすでに堕ちていた。


「上手に脱げました!じゃあ今度はおむつ履こうね~」


上半身はパジャマ、下半身には何も履いていない素子がベッドの横に立つ。お母さんは、大きいサイズのおむつに手を通し、ウエスト部分を大きく広げながら素子の足元におむつを差し出した。


「み~ぎ!ひだ~り!」


お母さんの声に合わせて素子はおむつに足を通す。お母さんは大きく成長した娘のふとももにおむつを引き上げていく。小さい時には何度も履かせた紙おむつ。6年生になって身長も150㎝を超えた娘に、再びおむつを履かせる日が来るとは思ってもいなかった。


「はーい、よくできました!」


「えへへ、あーとう!」


こんなに無邪気に笑う素子を見るのはお母さんも久しぶりだった。お母さんも気づかないうちに、素子は幼児語で話すようになっていた。お母さんは持ってきていたカゴから、おしゃぶりとガラガラを取り出す。


「あしたこっそりさくらに返そうね~」


素子は下半身はおむつだけでベッドに横になる。お母さんがおしゃぶりを渡すと、キャッキャと喜びながら口に咥えた。お母さんがガラガラを振りながらお腹をトントンすると、数分もしないうちに寝息を立て始めた。




素子は、体を揺さぶられるのを感じて目を覚ました。


「もとちゃん、オハヨ」


ハッと気づくとお母さんがいつもの様子でベッドの傍に立っていた。


「お父さんやさくらに見つかったらまずいでしょ」


まだ6時を過ぎたばかりで、家の中は静かだ。お母さんは小声で素子に起きるよう促す。昨晩はおしゃぶりを咥えておむつを履いて寝ていたが、おむつを汚すことも夜を過ごすことができたようだった。おしゃぶりは知らないうちに外れ、ベッドの横に転がっていた。


素子が脱いだ紙おむつはお母さんが中身の見えないビニールに入れ、おしゃぶりも回収していった。


「もとちゃん、昨日だけだからね。誰にも言っちゃダメよ。おむつはクローゼットの奥に入れとくから、お友達にはバレないように気を付けてね」




あれから一度もおねしょをすることはなかったが、月に1枚ペースでおむつが減っていったのは素子しか知らない。







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