32.香子先輩の不安と迷い、の理由

「――この先・・・は、わたしもまだだから」


 この先。

 言葉の意味を正しく理解して、ごくりと唾を飲み込む。


「それじゃあ」


 短い確認に、香子先輩もこくりとうなずきを返す。

 見つめ合って、目は逸らさない。

 再び二人の距離は近づいて。

 心拍数が際限なく上がっていく――


 そんなときだった。




「ただいまー……あら? 香子? 誰か来てるのー!?」




 ドアを貫通して、大きな声が部屋の中まで届いた。


「――はぁ!?」


 香子先輩は素っ頓狂な声を上げて、弾かれるように僕から距離を取った。

 先輩に触れようとしていた手が行き場を失い、僕はそっと腕を下ろす。


「なんで? 帰ってくるの早すぎでしょ!?」


 先輩は大いに焦っていた。

 普通ならこちらが慌てる立場なのに、先輩の慌てっぷりのおかげで逆に落ち着いてしまう。


「えーと、どうしましょうか」


「そうね、お母さんは帰ったらまず荷物を置くために自分の部屋へ行くから、その隙に脱出してちょうだい」


「脱出って……」


「あとはわたしが適当に誤魔化しておくから」


 ――それって、僕を親御さんに見せたくないってことですか。


 情けない言葉が喉元まで出かかったが、どうにかこらえる。


 他人にはわからない家庭の事情や、考え方の違いがあるのかもしれない。面倒くさいことを言って香子先輩を困らせたり、親子の仲がこじれるのは嫌だった。


「わかりました。また今度、改めて挨拶できるといいですね」


「……そうね」


 香子先輩は目を伏せて、髪の毛を手櫛で梳いた。

 そのつぶやきをさえぎるように、足音が上がってくる。


「お母さんの部屋、階段上がってすぐのところだから」


「あ、はい」


 しかし足音は止まらない。

 階段を上がりきると、そのままこちらへ近づいてくる。


「あの、これってもしかして」


「……はあ」


 顔を見合わせると、香子先輩はため息をついた。

 それと同時にドアがノックされる。


「香子ー、入っても大丈夫?」

「……どーぞ」


 投げやりに返事をする香子先輩。

 僕は急いでベッドから立ち上がった。


 ドアが開いて、香子先輩のお母さんが入ってくる。


 彼女の部屋で二人きりのところへ、その親が入ってくるという恐ろしい状況。父親でないだけまだマシなのかもしれないが、どう対応するのが正解なのだろう。


「……どうも、お邪魔しています」

「ええ、いらっしゃい」


 こちらからあいさつしつつ頭を下げると、お母さんは笑顔を返してくる。

 凛とした娘と違って、和やかな印象を受ける明るい表情。

 

 お母さんは僕と先輩を交互に見てから、さらに後方へちらりと視線をやった。つまりベッドへと。


「もしかして、お邪魔だった?」

「いえ……」

「お母さん! 彼はもう帰るから……」


 香子先輩が顔を赤くして詰め寄るが。

 お母さんはひょいと避けて、娘の肩越しに話しかけてくる。


「あら、ダメよそんな。せっかく来てくれたんだし。あ、そうだ。お夕飯まだでしょう。うちで食べていって?」



◆◇◆◇◆◇◆◇



「へぇ、じゃあ島津君は2年生で、バスケ部なのね」

「は、はい」


 風子ふうこさん(お母さん)の距離が近い。

 キッチンテーブルの隣り合った席に座って、事情聴取を受けているところだ。部活、学年、香子先輩との関係など、ほんの十分ほどでかなりの情報を吐いてしまっていた。


「ちょっとお母さん、近づきすぎ。しま……、徳之とくゆきが困ってるじゃない」


 そして香子先輩は唐突に僕を下の名前で呼び始めた。母親が〝島津君〟呼びなのでそれに対抗しているのだろうか、だとしたら無茶苦茶かわいいですね。


 ちなみに香子先輩は今、キッチンで揚げ物をしている。


 最初は、風子さんが出かける前に用意していたという作り置きのカレーをごちそうになる予定だったのだが、


『それだけだと物足りないでしょ』


 とチキンカツを付け足してくれることになったのだ。


『身体のことを考えたらやっぱり鶏むね肉よね』


 などと言って。


「香子は相当気に入ってるみたいね、あなたのこと」


「えっ?」


 揚げ物に集中している香子先輩に聞こえないように、そっと話しかけてくる風子さん。

 

「あなたに出す料理に、少しでも自分の手を加えたいのよ。昔っから対抗心の強い子だったから」

「……ちょっと、何話してるの」

「秘密。ねえねえ島津君。香子の昔の写真、見たくない?」

「もちろん見たいです」

「はあ? 勝手にそんなこと――」

「揚げ物をしてるときは目を離しちゃダメでしょ」

「くっ、卑怯な手を……」


 ときどき振り返って睨んでくる先輩に心の中で謝りつつ、風子さんのスマホを見せてもらう。アルバムは僕の知らない香子先輩でいっぱいだった。


 かわいい、スワイプ、きれい、スワイプ、格好いい、スワイプ――、一枚一枚、じっくり見つめて心に焼き付けていく。


「――あれ? この写真」


 その途中でひとつの画像に注目して指が止まった。


 この頃の先輩は小学校低学年くらいだろうか。胸元に手書きの名札があって、『かおるこ』と書かれている。


「先輩の名前って……」

「ああ、それね」

 風子さんがくすくすと笑う。

「こうこ、っていう名前がニワトリの鳴き声みたいって、お友達にからかわれたことがあってね。それで勝手に改名しちゃったのよ。これは〝こうこ〟じゃなくて〝かおるこ〟って読むのよ、って」

「怒涛のごとく可愛いですね……」


 そうやって写真ごとのエピソードを聞いていくうちに、僕の顔は相当ゆるんでいたのだろう。


「うれしそうね」


 と風子さんに笑われてしまった。


「……あ、すいません、他人様の娘さんを……」

「いいえ、好きになってもらってうれしいわ。誰に似てしまったのか、気の強い子だから」


 風子さんはそこで言葉を切って、わずかに目を細めた。

 それからリモコンを取って、ニュース番組の音量を上げて――つまり香子先輩まで声が届かないようにしてから、やや遠慮がちに、その話題を口にした。


「もし知らなかったら申し訳ないんだけど。同じ部活の――」


 ああ、やっぱり。

 直前の様子で察したとおりの話だったので、風子さんが言い終わる前に言葉を継いだ。


「――前に付き合ってた人がいる、って話ですか」

「……遠距離恋愛だったことも?」

「はい、よく知ってます」


 とてもよく知っている。当事者二人を除けば、僕が一番詳しいだろう。


「そう……。それなのにあの子は……」


 風子さんは困ったように眉を寄せて、キッチンに立つ娘の後ろ姿を見つめる。


 それは、どういう感情から出たつぶやきなのだろうか。

 気にはなったものの、深く聞くこともできないまま時間は流れる。チキンカツが揚がり、等間隔に切られ、カレーの上に盛りつけられるくらいの時間が。


「はい、お待たせ」


 完成したカツカレーが食卓に並んだ。揚げ物と香辛料の香り、そしてカツにたっぷりかかったカレールーのビジュアルが食欲をそそる。サイドメニューのサラダも色合いがきれいで、盛り付けの上手さが光っていた。


「すごくおいしそうです。やっぱり先輩って揚げ物も上手ですよね」

「……そう? ありがと」


 ふいっと顔を逸らしつつ、素っ気ない返事をする香子先輩。

 風子さんがじっとこちらを見つめて、


「前にも香子の揚げ物を食べたことがあるみたいな言い方ねぇ」

「ああ、それは……」


 僕と風子さんのやり取りをさえぎるように、香子先輩がカレーの皿をこちらへずいっと押し出す。


「ほら、揚げたてなんだから早く食べて」

「そういえば最近、朝に台所が使われた形跡があるのよねぇ」

「ああ、実は……」

「徳之? 早く食べないとアレンにあげるわよ?」

「柴犬ってカレー食べれるんですか?」


 そんな風にバタつきつつ、ようやく晩ご飯をごちそうになる。

 

 食事のさなかにも風子さんはよくしゃべった。僕の食べっぷりをほめそやしたり、娘の偏食について暴露したりして。


 いつもは静かに食べる香子先輩も、母親にからかわれるたびに大げさに反応していた。目が合うと照れくさそうにしていたけれど、学校とは違う一面が見られて、僕はうれしかった。


 風子さんが帰ってきたとき香子先輩の様子がおかしかったので、もしかして親子仲が悪いのではないかと心配もしたが、そんなことはないようでホッとした。


 団らんというのはこういう時間を言うのだろう。

 心からそう思えるような夕食だった。

 ……父親が不在だったからかもしれないが。




 そのあとデザートまでごちそうになり、せめてこのくらいはと洗い物を手伝っているうちに、そこそこ夜も遅くなり、長居する理由もなくなっていた。


「それじゃあ、今日はこれで」

「少し待って。島津君、あなたに確認したいことがあるの」


 おいとましようと風子さんに声をかけて、逆に呼び止められる。


「あ、はい……――ッ?」


 その表情は鋭く引き締まっていた。

 これまでの穏やかさとの、あまりの落差に息をのむ。


 親でも教師でもない大人から、こんな圧迫感を受けるのは初めてだ。

 何か、ただならぬ話が始まるのだということを肌で感じた。


「――ちょっと、お母さん!?」


 香子先輩があわてて風子さんに詰め寄った。

 それは母親に喋らせまいとするような、切羽詰まった動きで――




「香子に県外の大学から特待生の話が来ていることを、あなたは知っているの?」




 しかし風子さんはそれよりも早く、僕たちの将来を問い質した。

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