31.香子先輩のお宅訪問
二度目である。
シャワーを浴びる香子先輩を待つのは、これで二度目だ。
一度目はハプニングによるものだった。
僕たちの関係も、ただの先輩と後輩だった。
しかし今日のこれは、前回とは明らかに状況が違う。
香子先輩からの誘いで家へ上がっているのだ。
加えて両親も不在だという。
そこへ彼氏を誘う意味がわからないほど子供じゃない。
それはもう、お互いに。
――僕は今、香子先輩の家のリビングにいる。
ソファに沈むように腰かけて、きょろきょろと室内を見まわした。
庶民的な我が家のリビングとは違い、新築マンションのモデルルームのようだ。
インテリアや家電のお洒落さは言うに及ばず。
喉が渇いてるでしょ、と準備してくれた麦茶の容器や、それを乗せているお盆のデザインからして格が違う。上品というかよそ行きというか、絶対に高価なものだとわかって落ち着かない。
いや、そうじゃない。
落ち着かないのは、これからのことを考えてしまうからだ。
そういうことをしたい気持ちがないわけじゃない。
というかある。山盛りの欲求を持て余す毎日だ。
香子先輩と付き合い始めてから――いや、そのずっと前から。
考えない日はなかったと言っても過言ではないだろう。
しかし、今の香子先輩はどこかおかしい。
その内容まではわからないが、不安がっていることはわかる。
それを放置したままで、
あるいは先輩は、その不安を紛らわすために。
そういうことを求めているのかもしれない。
そんな不純な動機でやるのは間違っていると、生真面目で弱気な僕が訴える。
じゃあ正しい動機なんてものがどこにあるんだと、粗野で勢い任せの僕が
前進するのか後退するのか、それすらも定まらない。
迷いのままに外を見ると、すでに空は夕暮れ色に染まってきていた。
窓には僕の顔が写り込んでいる。その表情は真剣そのものだが、頭の中では彼女と
やがて、扉を隔てて物音がした。
香子先輩がシャワーを終えたのだ。
動悸が速まり、全身の血のめぐりが勢いを増すのがわかった。
「お待たせ」
現れた香子先輩は、半袖のシャツにハーフパンツという、夏の部屋着らしいラフで露出の多い服に着替えていた。脱ぎやすい服装とも言える。
「今日は寝てないみたいね」
ホテルに泊まったときのことを持ち出してからかう香子先輩。
汗を流してリラックスできたのか、緊張している様子はない。
「まあ、今回はさすがに」
「さすがに?」
首をかしげてこちらをのぞき込んでくる。
「……彼女の家なので」
「ええ、そうね」
「あの、僕もシャワーを」
「キミは駄目」
手首をつかんで引っ張られ、ソファから立ち上がる。
「ほら、部屋へ行きましょ」
家人に駄目と言われたら、勝手にシャワーを浴びることもできない。
真っ白な素足を目で追いながら階段を上がっていく。
まるで夢の中を歩いているみたいだった。右足、左足、右足……と意識して動かさないと、まともに歩けないのではないか。それくらい足元がおぼつかない、ふわふわした心地。
香子先輩の部屋はシンプルな印象だった。
ぬいぐるみだとか、アイドルのポスターだとか、その手の装飾品は一切なく、女子の部屋にしては飾り気がないと感じる。
本棚の最上段にはバスケットボール関連の本がまとめて押し込まれている。すぐ下の段にはスラムダンク全巻。勉強机の上には受験対策の本が出しっぱなしだ。カーテンが薄紅色なのが、意外といえば意外か。もっと落ち着いた色が好みだと思っていた。
「初めて入った彼女の部屋はどう?」
「……甘い匂いがしますね」
「まず気にするのが匂いなんて……。性癖?」
「入ってすぐ思ったのがそれだっただけです」
「じゃあ無意識下の性癖ね」
「もうそれでいいです……」
諦めて投げやりに答えると、香子先輩は笑いながらベッドに腰かける。
「近くに来るとき、いつもわたしの体臭を嗅いだりしてたの?」
「いえ、体臭って感じじゃなくて、先輩はいい匂いで――あ」
香子先輩のジトッとした目つきで、失言に気づく。
「冗談だったのに、本当に嗅いでたのね」
「ちが、そうじゃなくて……、大会前の練習試合のとき、先輩に肩を貸したことがあったじゃないですか。匂いを意識したのはあのときだけですから」
「ほう……、まあ、そういうことにしておいてあげる」
香子先輩はすぐ隣のスペースを、ぽんぽんと軽く手で叩いた。
「さ、突っ立ってないで、座って?」
「あ、はい、オジャマシマス……」
錆びついたロボットみたいにぎこちない動きで、香子先輩の隣に腰を下ろす。
スプリングの軽い反動。これがいつも香子先輩が寝起きしているベッド。聖地。
……。
…………。
………………で、ここからどうすればいいのだろう。
思えば世の中の〝教材〟は偏っている。
具体的な知識を学べる教材は豊富なのに、そこへ持っていくためにどう行動すればいいのかを伝える教材はほとんどない。だから知識を活かす機会がないのだ。言い訳をしている場合か。
「――ッ?」
あわてて顔を背けられてしまった。
ここまでずっと余裕があるように見えた香子先輩だが、それは外面を取り繕っていただけなのかもしれない。今は横顔どころか肌もほんのり赤く色づいている。おそらく恥ずかしさによって。
そんな反応のおかげで、僕は却って落ち着くことができた。
ベッドの上に置かれた先輩の手に、そっと自分の手を重ねる。
「……島津君?」
いいですか? なんて馬鹿な質問はなしだ。
この関係とこの状況が、ここからの行動を肯定してくれるはず。
駄目だったら謝ろう。
目を合わせたまま、顔と顔の距離を詰めていく。
かすかな驚きと緊張が、表情から伝わってくる。
先輩が目を閉じた。
僕は閉じない。
触れる直前で、微調整の一時停止。
距離はゼロになる。唇から伝わる唇の感触。
「んっ……」
香子先輩の小さな喘ぎ。
僕はずっと息を止めていた。
こちらの鼻息が相手に触れたら、それだけでキスという幻想が壊れてしまう気がした。
やがて、どちらからともなく唇が離れていく。
目を開けた先輩が、ぎこちなくほほ笑んだ。
「ごめんね、ファーストキスじゃなくて」
「別に、気にしませんよ」
強がりと思われない程度には、平然と答えられただろうか。
「……それに人間の肌細胞は約一か月で新しくなるので、香子先輩の唇は昔とは違います。実質ファーストキスです」
「発想がちょっと怖いんだけど」
香子先輩は口元を押さえて笑う。そして、
「……でも、
この先。
言葉の意味を正しく理解して、ごくりと唾を飲み込む。
「それじゃあ」
短い確認に、香子先輩もこくりとうなずきを返す。
見つめ合って、目は逸らさない。
再び二人の距離は近づいて。
心拍数が際限なく上がっていく――
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