28.香子先輩と交際する日常

 香子先輩と付き合うことになった。

 ……のだが、昨日、告白をしてからの記憶が曖昧だ。

 

 駅で香子先輩を見送って、家へ帰って、寝て、夜が明けて、学校へ来て。

 部活に励んでいる今現在も、ずっと目の前のことに集中できていない。


 これまでの平凡な現実から、香子先輩と付き合うことになった劇的な現実へのアップデートがまだ終わっていないのかもしれない。バージョン2.0への移行中なのかもしれない。


「……ねえ、そっちの副部長、なんか変じゃない」

「媛宮もそう思うか? なんか練習に身が入ってねえんだよな」

「心ここにあらずっていうか、前が見えてないっていうか……」

「でも妙に表情が晴れやかなのがアンバランスっつーか……」

「「単純にキモい」」


 遠くからののしる声が聞こえてくるが、それも別に気にならない。

 もうすぐ僕はこの平凡な現実を超越する存在へと進化するのだ。

 その精神を揺さぶる者がいるとすれば、それは――


「あっ、瀬川先輩! お疲れ様です!」

「お久しぶりです、瀬川先輩!」


 女バスのコートがにわかに騒がしくなる。

 校舎から直通の渡り廊下側入り口に立つ、その姿は、


「――行ったぞ!」

「ぐぉふ?」


 脇腹に重い衝撃。

 遅れて、パスに気づかずボールの直撃を食らったのだと理解する。


 腹筋に力を込めていた状態ならともかく、無防備だったのでなかなかダメージが大きい。ゲームのメンバーを替わってもらい、コートを出て休憩することになる。


「大丈夫か」


 粟木があきれ顔で声をかけてくる。


「けっこう効いたけど、あばらまではイッてないはず」

「それもあるが、それ以上に……、なんか今日のお前、変だぞ」

「そう? よくわからないけど」

「瀬川先輩に振られでもしたか?」


 自分がおかしなことは自覚していたから適当にはぐらかしたのに、まさか真逆の疑いをかけられるとは思わなかった。


「……そんな風に見える?」

「ああ、つらい現実から目を背けて、夢の世界に逃げ込もうとしているみたいだ」


 ひどい誤解だった。


 粟木や媛宮にそんな風に見られるのは構わない。

 しかし香子先輩は別だ。

 僕が最もその視線を気にする人に、今の僕はどう見えているのか。


 女バスの方では、香子先輩はまだ後輩たちに取り囲まれている。

 が、僕が見ているのに気づくと、くいっと顔を振ってサインを送ってきた。


 こっちへ速いパス出して、ワンバウンドで、的な素っ気ない合図。


「……ちょっと保健室行ってくる」

「おう」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 

 嘘をついて体育館を抜け、渡り廊下の校舎側入り口で待っていると、少ししてから香子先輩がやってきた。合流して、ひと気のない廊下の隅へ移動する。


「大丈夫だった? ボール食らってたけど」

「見てたんですか」

「もちろんよ、体育館に来て真っ先にキミを探したから」

「……それは、どうも……」

 

 真っすぐで好意的な言葉に、まともに顔を見ることができない。

 香子先輩は今日も綺麗だ。

 本当にこの人が僕の彼女になったのだろうか。


「先輩は今日も夏期講習ですよね」

「ええ、さっきまで模試の採点をしてたの。第一志望の伯鳴大はA判定だったわ。このままいけば合格は安泰ね」

 

 伯鳴大は地元の国立大学だ。

 香子先輩の進学先については、以前に耳に挟んだことがあった。

 それでも、改めてそこが第一志望だと聞いてほっとする。

 僕と先輩は遠距離恋愛にはならないことに。


「さすが文武両道」

「まあね。……でも、今日は少し、集中できなくて」

「それって」


 付き合い始めで浮かれているということだろうか。

 先輩も僕と同じ気持ちだったなんて、と期待に顔を上げるが、



「だから、今からキミの彼氏一日目を採点しようと思うの」



 まったくの勘違いだった。


「――えっ?」


 その表情は生徒を値踏みする試験官のごとく。

 香子先輩は階段を3段上がって僕を見下ろし、


「まず、夜のメッセージが素っ気なかった。減点10」

「……はい」

「朝のメッセージがなかった。減点20」

「……はい」

「学校で声をかけてこなかった。減点20」

「……はい」

「部活にぜんぜん集中できてない。減点50」

「……はい」


 坂を転がり落ちるように減点されていく。


「何か申し開きは?」

「この度のふがいない結果はわたくしの不徳の致すところであり……」

「そうじゃないでしょ」


 反射的に垂れ流される謝罪文を遮り、香子先輩がしゃがみ込んだ。

 そうすると、顔の高さが僕よりもやや低くなる。


 上目づかいでじろりとにらんでくる香子先輩。

 こういう顔もやはり綺麗だった。


「……ええと、そうじゃないっていうと?」

「ここは反論する場面でしょ」

「はん、ろん……?」


「わたしだって、夜のメッセージは照れくさくて素っ気なかったし、寝坊してバタバタしてたから朝のメッセージも送れなかったし、学校で声をかけられなかったのは顔を合わせるのが恥ずかしかったからだし、昨日のことを思い出してたら受験勉強に集中できなかったし」


 香子先輩は早口で喋りながらも、どんどん顔が赤くなっていく。

 

「……つまり、さっきの減点は、そのままわたしにも当てはまるってことよ」


 そんなふうに話をまとめて、立ち上がる香子先輩。

 また先輩を見上げる形になる。

 見下ろしてくる先輩は、先ほどよりもやわらかい表情をしていた。


「キミは何か悪いことがあったら、すぐ自分のせいにしてしまう。……それは決して悪いことじゃないわ。やさしくて責任感があるってことだもの。でもね、いつも謝罪が先に来るのはよくないと思う。特に、わたしたち二人に関わることは」


「……僕たち二人に」


 香子先輩が自分と僕を一括りで捉えている。

 その事実だけでうれしくなってしまう僕は――


「そうよ。付き合うってことは、対等になるってことなんだから」


 ――まだまだ香子先輩と対等にはなれそうにない。


 だけどせめて今は、その要求に応じられるだけの自分でありたい。

 意を決して階段を上り、香子先輩と同じ段に立つ。


「……夜のメッセージが素っ気なかったのは、照れくさかったからですか」

「……そうよ」


 ふいっと目を逸らす香子先輩。


「寝坊したのは、昨日の夜に眠れなかったから?」

「だっていろいろ考えるでしょ」


 投げやりに言う香子先輩。


「学校で顔を合わせるのが恥ずかしかったのってどうしてですか」

「夏祭りのことを思い出しちゃうから……」


 顔を伏せて語尾が弱くなる香子先輩。

 

「それで夏期講習にも集中できなかったって言ってましたもんね」

「……あの、ちょ、……も、もういいでしょ?」


 真っ赤になった顔を手で隠しながら、階段を飛び降りる香子先輩。


「いちいち極端なのよ、キミは!」

「すいません、確かに……」


 少々、前のめりになりすぎたかもしれない。でも、なんだかんだ言いながらも弱点というかツッコミどころというか、そういうポイントをたくさん用意してくれる香子先輩にも責任があると思う。


 だんだん楽しくなってきた僕は、調子に乗って先輩を追いかけようとする。

 が、それに水を差すように校内放送が鳴り響いた。


『3年1組、瀬川香子。3年1組、瀬川香子。進路指導室まで――』


「あっ、これね、進路指導の先生と面談があるのよ、そろそろ順番みたいだから、もう行かないと」


 香子先輩はなんだか言い訳みたいに説明して、また階段を上っていく。

 今度は止まらない。


 その背中に向かって呼びかける。


「……練習、集中してやりますんで。香子先輩も受験勉強、がんばってください」


「生意気」


 憎まれ口は即座に。


「――キミもがんばって!」


 エールは遅れて。

 階段を一階分ほど駆けあがってから降ってきた。

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