27.香子先輩と夏祭り 後編
香子先輩に引っ張られて、無言で夜道を歩いていく。
それが1・2分ほど続き、やがて先輩がこちらを振り返った。
「何か感想はないの?」
「感想って……、何のですか?」
「今の、この状況についてよ」
香子先輩はつないでいる手を軽く揺らす。
「異性と手をつないでいるシチュエーションのこと。先輩の手、こんなに小さかったんだ……、とか、体温が高いんだな……、とか。あるでしょ? そういう思春期っぽい感想が」
「えぇ……」
まさかそんなものを要求されるとは思わなかった。
実際、先輩の言うとおり、こんなに手が小さいのかという驚きはあった。個人差はあるにしても、男女でこんなにも違うものかと。
「まあ確かに、先輩の手ってけっこう小さいなとは思いました」
「ふんふん、それで?」
「こんな小さな手で、あんなに自由自在にバスケットボールを操っているのかと思うと、ちょっと感動しました。女子って両手で持つことが多いですけど、先輩は結構片手でボール扱いますよね。だから、どれだけ練習したんだろう、重さに負けない腕の使い方とか工夫してるんだろうなとか、でも慣れるまでは大変だったんじゃないかな、とか、そういうことを……って先輩? 聞いてます?」
「あ、ほら、屋台が見えてきたわよ。わたし焼きそばが食べたい」
聞いてなかった。
思えばそこそこ熱心に語ってしまった気がするが、それが届いてなかったのは、良かったのか、悪かったのか。どちらにしても釈然としない気持ちは残る。
「自分で話振ったくせに……」
「イカ焼きも食べたい」
「……僕は焼き鳥ですかね」
香子先輩の食欲に流されて、話を合わせるしかなくなる。
「いいわね、焼き鳥。塩がいい」
「こんな屋台で塩とか、中途半端に
「人の好みに口を出すとはいい度胸ね。でも、今は気分がいいから許してあげる」
「食べ物のこと考えてテンション上がったんですねあ
つないでいた手が一瞬だけ強く握られて、思わず声を上げてしまう。
「ええ? なんで」
「さあ。教育的指導とか?」
「そんな適当な……」
食べ物のことでからかうやつは女心がわかってないとか、そういう意味で不勉強ということだろうか。攻撃された理由はわからなかったが、その痛みと引き換えに、香子先輩は意外と握力が強いという情報を得た。
屋台を回っているうちに、どちらからともなく手が離れてしまう。
だけどその方が香子先輩をよく見ることができた。
焼きそばを口いっぱいに頬張っているところや、イカ焼きや焼き鳥の肉汁が浴衣にたれないように注意深くかぶりついているところや、かき氷を頭が痛くならないようにゆっくり食べていたくせに結局キーンとなって顔をしかめるところなど――食べてるところばっかりだが――ともかく、楽しそうにしていた。
他にもいろいろ。
射的でライフルを構える姿が妙にサマになっていておかしかったこと。どうせすぐ世話が面倒になるからと金魚すくいはやらなかったくせに、どうせすぐしぼんでしまうヨーヨー釣りはムキになって挑戦していたこと。誰かがゴミ箱に入れようとして外したゴミをさり気なく拾っていたこと。咲き乱れる花火を見上げるふりをして横顔を盗み見ていたら目が合って、挑発するような笑顔を返されたこと。
女子の可愛さは平均値だと香子先輩は言っていたが、それは間違いだと思う。
でないと、隣で可愛さの最大値を更新し続けている女子の説明がつかない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「そろそろ帰ろうと思うんだけど」
花火がまだ上がり続けているさなか、香子先輩が提案してくる。
大きな音が降ってくる中、隣にいても声は聞き取りにくい。
だから香子先輩は僕の肩に手を置いて、耳元でしゃべっている。
そのあまりの近さに、感触に、僕の身体は不自然に硬直している。
「まだ花火の途中ですけど」
「だからよ。早めに移動しないと帰りの混雑に巻き込まれちゃうでしょ」
「なるほど」
「キミがもっと花火を見ていたいのならなら、つきあうけど」
「いや、帰りましょう」
「本当にいいの?」
「他の人が花火に夢中になっているときに、自分たちだけクールに去るのも悪くないなって」
「根暗」
「そっちは違うんですか」
「わたしは単なる効率優先だもの」
先輩の手が離れる。熱と重みがなくなってしまう。
「じゃあ、行きましょ」
「はい」
誰もが夜空を見上げているのを横目に、僕たちは人混みの間を抜けていく。
おかげでスムーズに祭り会場から抜けることができた。
花火の音はまだ鳴り続けているが、だいぶ遠くなっている。
隣を歩く人の声が十分に聞き取れる程度には。
からん、ころん、と。
先輩の履く下駄の音が耳に心地いい。
どこからともなく虫の音も聞こえてくる。
会話がないことにも居心地の悪さを感じない、穏やかな空気のなか――
「あ、先輩、そっちの道は違いますよ」
香子先輩が道を間違えた、
「ひと駅分くらい歩きたい気分なの。付き合ってくれない?」
と思ったら意図的だったらしい。
「いいですよ」
仮に明日、朝練があったとしても、先輩からの夜歩きの誘いを断るわけがない。
「……歩きたい気分とか、何かあったんですか?」
「ほら、わたしって浮気されてたじゃない」
それはあまりにも唐突な話題だった。
本当になんの前置きもなかった。
「……いきなりですね」
「だけど、浮気してたのはわたしの方だったのかもしれない」
いきなりの上塗りである。
浮気してたのはわたしの方?
一瞬、思考が飛んでしまう。
言葉は出ないが頭は回る。
浮気していたのは香子先輩の方?
いつから? 誰と?
僕の知っているやつなのか?
そいつとはどこまで行ったんだ?
まだ付き合いがあるのか?
次から次へと疑問が浮かんでくる。
「すごい顔」
先輩はのんきに笑う。
「まあ、浮気っていうのは大げさかもしれないけど」
「……冗談だったんですか?」
「だから、誇張よ」
吊り上がった口元を浴衣の袖口でそっと隠して、
「距離と一緒に心が離れても、あまりさびしさを感じなかったのは、話を聞いたり我がままに付き合ってくれる人が近くにいたからで、それって精神的には
「不意に?」
「ええ。ついさっき、夏祭りの真っただ中でね」
香子先輩はじっとこちらを見つめてくる。
遠くから花火の音。
足元から下駄の足音。
どこからともなく虫の鳴き声。
真夏の夜の生ぬるい風が、返事を急かすように肌を撫でる。
「それって……」
「――卒業まで、今後ともよろしくってこと」
こちらの言葉をさえぎるように、香子先輩は言った。
卒業。
それは僕と香子先輩の、どうしようもない隔たりを示す単語だ。
よりにもよって、こんなタイミングで言わなくてもいいのに、と思う。
一緒に夏祭りへ行って、
それなりに盛り上がって、
なんだかいい雰囲気の帰り道で、
意味深な言葉で人を惑わせておいて、
わざわざこんなタイミングで、卒業の話をしなくてもいいのに。
そう思ったが、思っただけで終わりたくはなかった。
「僕は卒業した後も、よろしくしたいです」
迷いは一瞬。
立ち止まって見据える。
「――香子先輩が好きです。僕と、付き合ってくれませんか」
香子先輩の足が止まった。
その表情がころころと変化する。
まず軽く目を見開いて、
すぐに余裕の微笑を浮かべたかと思えば、
こらえ切れなくなったようにその笑みを深めて、
特に意味もなく耳の上の髪の毛を梳いたり、
右へ左へと忙しなく振り向いたり、
顔を伏せて黙り込んだり、
「キミがわたしを好きなことはずっと前から知ってたけど……」
そうして、ようやく上げた顔は。
やられたわ、って感じの、少し悔しそうな笑顔だった。
「面と向かって伝えられると、けっこう、ずしんと来るわね」
また可愛さの最大値が更新される。
大輪の笑顔。
「――だから、ええ。よろこんで」
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