21.香子先輩の最優先
「……さて、と」
顔を上げた香子先輩は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
先ほどの激しい感情の揺れ動きなど忘れてしまったかのように。
いや、違うか。
この静けさは、僕への圧力。
さっきのことは忘れなさい、という無言のメッセージなのだろう。
「……あの、これからどうするんですか?」
「さすがに戻れる気分じゃないから、帰って大人しくしておくわ。気を抜いたら普通に歩いちゃいそうだし」
「ケガしてる設定ですもんね」
「というわけで」
香子先輩はベッドに上がってカーテンを引いた。
クリーム色の布の向こうに、その姿が隠れてしまう。
「どうしたんですか?」
「そのままで聞いてほしいんだけど、ちょっとお願いがあるの」
「はい」
「親に車で迎えに来てもらってるから、正門のところまで肩を貸してくれない?」
「……僕がですか?」
肩を貸すということは身体が触れ合うということであり、そのシチュエーションを想像していたら返事が遅れてしまった。
「普通に歩いてるところを見られたら、いろいろ面倒でしょ」
カーテンの向こうから香子先輩が答える。
そのシルエットはもぞもぞと動いていて、特に腕の曲げ伸ばしが多いように見える。なんの動作だ……?
「確かにまあ、そういうことなら――って先輩!?」
「なーに?」
「もしかして……、きが、着替えてません?」
「さあどうかしら」
僕は黙って回れ右をした。
「あ、こら。そのままで聞いてって言ったでしょ」
「なんでわかるんですか」
「こちらが深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている……」
「ニーチェはそういうつもりで言ったんじゃないと思いますよ」
「わかんないわよー、ニーチェだって男の子なんだし」
ベッドの方を見ないようにしたら、視覚に代わって聴覚が張り切りだした。
衣擦れのシュッという音や、ベッドがぎしぎしと軋む音が、やけにはっきりと聞こえてくる。それらの音は妙に生々しく、かえって想像力を掻き立てられてしまうのだった。
「さ、肩を貸してちょうだい」
やがて制服に着替えた香子先輩が、ベッドから下りて手招きする。
「ここからですか?」
「嘘は細部まで詰めないと、誰が見てるかわからないでしょ。キミみたいに」
そう言うや否や、先輩の腕が僕の肩に回された。今までにない感触と距離感にびっくりして、感電したみたいに身体が震えてしまう。
その大げさな反応について、香子先輩は何も言わなかった。
絶対からかわれると思っていたので、肩透かしを食らった気分だ。
わざとタイミングを外して次で何か狙っているのではないか。
そう考えたが、それも違った。
保健室を出てから正門にたどり着くまでのあいだも、先輩はずっと大人しかった。至近距離で目が合わないように、露骨に顔を背けていたから、どういう表情をしているのかもわからない。
触れた腕から伝わってくる体温や、耳をくすぐる艶めかしい息づかいや、夏の風に混じる甘い匂い――それらで五感がいっぱいで考えごとをする余裕もなかった。
「いろいろありがとう」
別れ際に礼を言う香子先輩は、夕暮れの公園に一人だけ取り残された子供みたいな顔をしていた。もっともそれは一瞬のことで、直後には感情の読めない、きれいな顔をした女子高生に戻っていた。
――今からどこか遊びにいきませんか、と。
ここで声をかけていたら、僕たちの関係は変わっていたのかもしれない。
僕は動くためにいちいち理由が必要な煮え切らない人間だけど、このときはとても分かりやすい〝動いていい理由〟があった。
香子先輩はひどく動揺していた。
いつもどおりに振る舞っていたかと思えば、大声で感情を吐き出したり。
明るくはしゃいでいたかと思えば、糸が切れたみたいに静かになったり。
精神状態が不安定なのは明らかで、それを元気づけるという名目で一緒にいることは、先輩のためになるし、僕自身そうしたいという気持ちは強かった。
だけど、これは違う。
うまく説明できないが、最善ではない気がした。
わたしの最善はわたしが決めるわ、と香子先輩は言うかもしれない。
僕にだって、どうするのがベストなのか、答えがあるわけじゃない。
ただ心当たりはある。バスケだ。
それが、今の先輩が最優先しているものだ。
だったら、先輩が明日からも気兼ねなくバスケができるように。
そのために動こうと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あっ、ちょっと島津、こーこ先輩は?」
体育館へ向かっている途中で媛宮と鉢合わせた。
ハーフタイムのあいだに香子先輩の様子を見に来たのだろう。
「親御さんが迎えにきて、もう帰ったよ」
「試合をラストまで見れないなんて、そんなに悪かったの?」
「大したことはないみたいだけど、精神的に、ちょっとね」
「……それって」
息をのむ媛宮。たったそれだけで事情を察したのだろう。
女バスの内情を知っている上に、さっきの試合も見ていたのだから、気づいてもおかしくはない。
「だいたいお察しのとおり。そこで、瀬川先輩信者である媛宮に、ちょっと頼みがあるんだけど」
「それ、こーこ先輩のためになること?」
「僕はそう信じてる」
そう断言する僕がめずらしいのか、媛宮は驚いたように何度かまばたきをした。
それから、品定めをするような視線が数秒ほど続いて――
「……わかったわ。それなら頼まれてあげる」
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