10.香子先輩と一泊 前編
部屋に入ってすぐに、二つ並んだベッドに目が行った。
ベッドとベッドのあいだはかなり狭く、横歩きしないと通れないくらいだ。身を乗り出して手を伸ばせば、相手の身体に触れられるほどの近さ。
「なに突っ立ってるの?」
香子先輩は荷物を置いてリモコンを操作し、テレビをつけつつ窓側のベッドに座った。
自分の部屋のようにくつろいでいる様子で、動揺はしていないようだ。異性と同じ部屋で一晩過ごすことへの不安や期待はないのだろうか。……まあ期待がないのは当然として、不安もないとすればそれは信用されているのか、軽視されているのか。
考えごとが止まらない僕の横で、香子先輩はベッドに倒れ込んだ。
ベッドが軋み、香子先輩が弾む。
ふだんの姿からは想像できない子供っぽい仕草だった。自分の部屋に戻るといつもこんな感じなのだろうか。香子先輩のこんな姿を見られるのは僕だけなのだと、本日何度目かの感動に打ち震える。
「こっちのベッド使っていい?」
「どうぞどうぞ」
香子先輩の確認に僕は二つ返事でうなずいた。
最初から自分が使うのだと決めていて、僕が反対しないこともわかっていて、その上で、わがままではないという予防線を張るためだけに、形式上の確認を取るのも、いつもの香子先輩だ。
「ああ、今日は本当に疲れたわ」
「ですね」
相槌を打ちながら僕も隣のベッドに腰を下ろす。
単純な移動距離だけでも小旅行なみだったが、精神的な負担もあるので疲労感はかなり強い。彼氏と別れることになった香子先輩はなおさらだ。
実際のところ、別れたことをどう思っているのだろう。帰りは少し感情的になっているようだったが、列車の運休でうやむやになり、それから話ができていなかった。
チラチラ見ていたせいで、そんな内心に気づかれてしまったのかもしれない。ちょうどその件について香子先輩が話を始めた。
「感情を抑え込まない方がいいとか、涙を我慢するのはよくないとか、言ってたじゃない?」
「僕は言ってないですけど……」
「言いたそうにしてたわ」
「まあ、はい……」
認めないと話が進まないと思ったので、不本意ながらうなずいておく。
香子先輩はテレビの方を向いたまま話を続ける。
「強がりなんかじゃなくてね、本当に、あまりショックじゃないのよ」
「でも手が出るくらい怒ってたじゃないですか」
「あれは……、わたしが引っ叩こうとしたとき、高明が悟ったみたいな顔でそれを受け入れようとしたからよ。自分だけ勝手に納得してすっきりしてんじゃないわよ、って、ついカッとなって」
「平手打ちでは物足りなくなったと」
「今日のキミはところどころ挑発的ね」
香子先輩と二人きりだから浮かれてるんですよ。
「ハプニングの連続でテンションが上がってるのかもしれないです」
「人の不幸って傍から見てるぶんには楽しいんでしょうねぇ」
香子先輩は皮肉っぽく語尾を上げる。
「……ところで、わたしがどうして高明と付き合おうと思ったか知ってる?」
「そりゃあ……、好きだったから、じゃないんですか?」
「ちょっと違うわ。総合的に見て、一番いい男だったからよ。少なくともわたしの知る範囲では」
「はあ」
香子先輩が何を言いたいのかがわからなくて、生返事をしてしまう。一番いい男だったから好きになって、それで告白して付き合うことになった――ということではないのだろうか。
「よくわからないって顔してるわね。何かしっくりくる言葉はないかしら……、そう、優良物件とか」
「〝いい男〟と〝優良物件〟じゃ、だいぶニュアンスが違いますよ」
「そう?」
「いい男っていうと、男気とか人望とか、精神面をほめてる感じがします。でも優良物件だと、顔がいいとか勉強ができるとか部活のキャプテンをやってるとかの、表面的な評価って感じじゃないですか」
「そのとおりよ、わかってるじゃない。わたしはまさに、高明のそういう表面的な部分を見て〝優良〟だと思ったの」
だんだん香子先輩の言いたいことがわかってきた。
自分に似合う服やアクセサリを探すように、自分の彼氏にふさわしい男子を探した結果、高明先輩に目をつけた、ということだ。
高明先輩を選んだ理由は、好意ではなく高評価。
だから――
「高明よりも顔が良かったり、成績が上だったり、もっと人気の部活のキャプテンだったり、そういう人がいたら、たぶんそっちを選んでいたわ」
香子先輩は口元をきゅっとつり上げる。
わたしって嫌な女でしょ? とでも言いたげな表情だ。
「そういえば、高明先輩狙いだった去年の3年の女子たちに、けっこう陰口叩かれてましたよね」
「……知ってたの?」
「香子先輩は性格が悪い、男子の前でばかりいい顔をしている嫌な女だって、一方的に吹き込まれたので」
僕に吹き込んだ嘘が高明先輩に伝わることを狙っていたのだろう。
それによって香子先輩の評価を下げようとしたのだ。
政治家の根回しみたいだ。女子って怖い。
「それなら――」
「でも、印象なんて受け手次第ですから。あの人たちにとっては嫌な女でも、高明先輩にとってはいい女だったから、付き合うことになったんじゃないですか。その結果がすべてだと思います」
香子先輩は目をしばたくと、今度はわずかに口元を上げてほほ笑んだ。
が、そのやわらかい笑みをすぐに引っ込めて、意地悪っぽく首をかしげる。
「結果がすべてって言うなら、最後にこんな別れ方をしたわたしは、やっぱり嫌な女だったことにならないかしら?」
「男女交際の最終的な結果は、当事者二人の責任だと思うので、お互い様なんじゃないですか」
「どっちもどっちってこと?」
「はい」
うなずいてみせると、返ってきたのは「ぷふっ」という笑いだった。
テレビを向いたまま香子先輩は肩を震わせてる。
今やっているのはサバンナの動物の生態を追う番組で、ちょうどライオンが仕留めた獲物を貪り食っているところだ。笑いが起こるシーンではないので、たぶん僕の返事がおかしかったのだろう。じゃないと猟奇だ。
「こんなときなのにキミって100%わたしの味方にはなってくれないのね」
「そういうやつも一人くらいいれば便利だと思いますよ」
僕は軽い口調でそう返した。
心の中では200%香子先輩びいきなので、せめて言葉くらいは中立に寄るように意識しているのだ。そうしないと、先輩のやることなすこと全肯定してしまう。だが、本当の味方であろうとするなら、一緒に迷子になってはいけない。ちゃんと道案内ができるくらいの客観性は持っていたい。
「そうね。確かにキミは、便利なやつよ」
そのおだやかなつぶやきに、どういう感情が込められていたのかはわからない。だけど決して嫌な気はしなかった。ある意味では本人からの公認なわけで、うれしいとさえ思う。それが200%の
それきり会話が途切れてしまう。
動物番組に続いてニュースが始まったが、その内容は頭に入ってこない。
ぼんやりとしたまどろみのような時間。
一日の疲れがじわじわと身体にまとわりついてくるのを感じていた。
身体の疲れは心の動きも鈍くする。
目を閉じればこのまま眠ってしまいそうな心地よい疲労感――
「それじゃわたし、シャワー浴びてくるわね」
そこにぶっ込まれる鮮烈な眠気覚まし。
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