11.香子先輩と一泊 後編

「それじゃわたし、シャワー浴びてくるわね」

「……しゃわー」

「一緒に入る?」

「……いっしょに」


 香子先輩の言っていることが、いまひとつ頭に入ってこない。そんな状態でも無言はよくないという中途半端な常識は生きていて、香子先輩の言葉をオウム返ししていた。


 だから先輩の言葉が途切れると、二人の間に沈黙が訪れる。

 もちろんテレビはこちら側を気にせずニュースを流し続ける。

 梅雨前線の北上により、明日は東日本一帯で大雨への警戒が必要です。

 では続いてのコーナーは――

 

「…………じょ、冗談よ、冗談」


 余裕の表情でこちらの反応を見ていた香子先輩だが、やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、逃げるように立ち上がった。


「え、ああ……、びっくりしました」

「だったらもうちょっとわかりやすい反応してくれない?」

「感情が振り切れたもので……」

「まあ、仕方ないわね。キミは経験が浅いんだし」


 ふふん、と得意げな顔で経験者ぶる香子先輩。

 今朝までならその態度を真に受けてしまっていただろう。

 さすが経験者は余裕があるなと、一抹の寂しさを感じていたところかもしれない。


 しかし、今は違う。


『だってお前、ヤらせてくれなかっただろ』


 高明先輩が語っていた、浮気の理由を思い出す。

 別れた理由としては嘘であっても、その内容自体は事実だったのだろう。

 そうでないと当事者には通用しないからだ。


「香子先輩も同じようなものじゃ……」

「何が?」

「だから経験がどうのっていう……」

「何のこと?」

「……いや、なんでもないです」


 か弱い反論に効果はなく、僕はおとなしく引き下がる。

 先輩の精神防御は鉄壁だった。しかも守りを固めるだけではなく、


「のぞいたら駄目よ」


 なんて反撃までかましてくる。


「そんなことしませんって。シャワーのヘッドって重いし固いじゃないですか」

「別に殴ったりしないわよ。……真っ先に凶器の心配をするとはいい度胸ね」


 ギロリと音のしそうな鋭い視線を残して、香子先輩はバスルームへ消えていった。


「ふう……」


 乱れた気持ちを落ち着かせるために、ため息をひとつ。

 バスルームの音が聞こえないようにテレビの音量を上げてから、ベッドに仰向けになった。


 天井を見上げながら、香子先輩のことを考える。


 湯浴みの真っ最中であろう一糸まとわぬ裸体についての妄想――

 ではなく、さきほど語っていた恋愛観についてだ。


 高明先輩に告白した理由は初めて知ったが、それで香子先輩に幻滅するということはなかった。


 選ぶ相手の理想が高いのは悪いことじゃない。むしろ先輩らしいと納得したくらいだ。一人の美女をめぐって複数の男性がアピール合戦をする番組もあるし、恋愛に限らず、魅力的な人が選択権を持つのは当たり前だろう。


 ただ、まあ……。

 香子先輩が設定するハードルの高さを思い知って、今までよりも遠く感じるようになったことは否めなかった。僕ではそいつを飛び越えられそうにない。


 できることといえば、今日みたいに都合のいい役割を演じるだけ。

 別にそれでもかまわなかった。

 香子先輩の特別にはなれなくても、その手前の〝便利なやつ〟にはなれる。

 それより先を求めるのは分不相応というものだ。


 後ろ向きな結論が出てしまうと、緊張がゆるみ、眠気が一気に襲ってくる。



 ――そして、気がついたら朝になっていた。



 差し込む朝日に顔をしかめながら思い知る。

 せっかくの香子先輩との夜に、なんの成果も得られなかったことを。



 だから、まどろみの中で何かを見聞きしたとしても、それはすべて妄想。実在しない記憶だったのだろう。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 風呂から上がった香子は、鏡の前で身繕いをする。


 下着はコンビニで買い揃えたが、さすがにパジャマにまでは手が回らなかったので、部屋に浴衣が用意されていて助かった。着慣れない衣類だけど、鏡で見る限りおかしなところはないはず。

 よし、悪くない。

 胸元のボリュームは物足りないが、湯上がりの火照った肌と、しっとりとつやめく黒髪だけで、初心うぶな後輩の動揺を誘うには十分だろう。


「ふぅ……、いいお湯だったわ」


 バスルームから出て自分のベッドへ向かう。そのあいだ、後輩の方は見向きもしない。

 こちらへの視線を引きつけたところで目を合わせて、『なぁに? そんなにわたしの浴衣姿が気になるの?』と不意打ちを食らわせてやるつもりだったのだが。


 しかし、どうしたことだろう。

 彼からの視線を一向に感じない。


 自分のベッドに腰かけて、髪を手櫛で梳いてみたり、大げさに足を組み直してみたりと、露骨な挑発を続けてみたが、徳之は無言のままだ。

 さすがに耐えきれなくなって振り返ってみて、沈黙の理由を知った。


「……え、ウソでしょ? この状況で?」


 徳之は眠っていた。

 ベッドに仰向けのまま、口を半開きにして。


 信じられなかった。

 憧れの先輩と同じ部屋で夜を明かすという唯一無二のチャンスを前にして、まさか何もせずに寝てしまうなんて。……まあ、チャンスだとしてもこちらから何かを与えるつもりはないのだけれど。


 香子は立ち上がって徳之の枕元へ移動する。

 しばらく見下ろしていたが、のん気な寝顔のまま、目を覚ます気配はない。

 このシチュエーションに盛り上がっていたのは自分だけで、徳之はそれほど意識していなかったのだろうか。そう思うと少し腹立たしかった。


 ……待て待て、冷静になれ、わたし。


 後輩ごときに心乱されてはいけない。

 深呼吸をしてベッドの隅に腰を下ろすと、二人分の体重でギシリと軋んだ。


「んぁ……」


 徳之が変なうめき声を出して身体をもぞもぞさせる。

 家で飼っている柴犬が、抱っこから逃れようとするときの動きに似ていた。

 その連想がおかしくて思わず吹き出してしまう。


 ひとしきり笑いが収まると、気持ちも落ち着いてきた。

 徳之も疲れていたのだろうと思いやれる程度には。

 

「……今日はありがとう。助かったわ」


 だから素直に感謝の言葉を口にしていた。もちろん返事はないが、香子はじっと徳之の顔を見つめ続ける。

 女子のあいだで噂になるような美形の顔ではないが、香子はあまりキラキラした顔面は苦手なので、そういう意味では徳之の顔つきは好ましい。


 起きているときは伏し目がちで、顔つきにも押しの弱さが表れているが、今は物事に動じない冷静な表情に見える。寝顔の方が女子に受けるのではないだろうか。


 眉毛から閉じた目、鼻梁をなぞって唇へ――

 視線を下げていって、そこで不意に思いついた。


 まず人さし指と中指をピタリとそろえて、自分の唇に押し当てる。

 その指先を、今度は徳之の顔へ近づけていく。

 まっすぐ唇へ向かっていた指先が、あと数センチというところで停止。

 ふらふらと迷走した末に鼻先へ、ちょん、と控えめに触れた。


 自然と笑みがこぼれる。

 が、数秒ほどすると我に返り、あわてて立ち上がった。


「なに、今の……」

 

 自分で自分の行動がよくわからなくて戸惑ってしまう。


 強いて言うなら。

 楽しくて浮かれてしまったとき、普段の自分ならやらないような、はしゃいだ行動を取ってしまう、あのノリに近いだろうか。


 そう考えて納得しようとして、いやいやいや、と首を振る。


 ――待て待てわたし。


 楽しくて浮かれてしまった?

 彼氏と別れたばかりなのに?


 ――流石にそれはおかしいでしょう。


 これ以上深く考えてしまうと、良くない答えを掘り起こしてしまいそうだ。

 

「さてと、わたしもそろそろ眠らなきゃ……あ、その前に歯を磨かないと」


 言い訳みたいに独り言をつぶやきながら、洗面台のあるバスルームへ駆け込む。

 そして、鏡に映った自分の顔の赤さに、また動揺してしまう香子だった。

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