05.香子先輩の物理攻撃
――ここじゃあれだから、場所を変えるか。
高明先輩に促されて、アパートの裏手に移動した。軽自動車が一台ギリギリ通れるかどうかの狭い路地だ。そこで僕と香子先輩は、高明先輩と向き合っている。
高明先輩の服装はTシャツに短パンという、さっきの女性と同じくらいラフな姿。それに加えて大きな変化として、髪が茶髪になっていた。僕が見慣れていないせいだろうか、その髪の色はあまり似合っていない。深夜のコンビニでたむろする、つまらない輩みたいだ。
変わってしまった高明先輩を、どう感じているのか。
香子先輩の背中からは、何の感情も読み取れない。
「久しぶりだな。香子も……、
僕は小さくうなずいて応じるが、香子先輩は無反応。ただ淡々と質問を投げる。
「急に押し掛けてごめんなさい。連絡を入れなかったのは、確かめたいことがあったからなの」
そこでいったん言葉を切る香子先輩。
相手に考えさせる時間を与えるためだ。
こんなときだというのに冷静である。
「……さっきの女の人は、何?」
「見てのとおりだ」
「こちらの察しに任せないで、自分の言葉で言って」
鋭い切り返しの言葉を食らった高明先輩は、返事に詰まり、やがて観念するように言った。
「大学で知り合って、一緒に住んでる。半同棲って感じだ」
「付き合ってるの」
「悪い」
高明先輩は謝るだけで、あまり詳しい説明をしたくはない様子だった。
それでも香子先輩は、当然の権利とばかりに問いかけを続ける。
「……どうして、わたしじゃなくてあの人なの?」
「それは」
高明先輩が顔を上げた。今までずっと、こちらと視線を合わせないよう目を伏せていたのに。
腹を決めたような、引き締まった表情だった。
何を語るのだろうか、とこちらも身構えるが――その緊張は一瞬のこと。
高明先輩はすぐに、口元をゆがめた薄ら笑いを浮かべて、
「だってお前、全然ヤらせてくれなかっただろ」
「――え?」
それは香子先輩のつぶやきか、それとも僕のものか。
まったく思いもよらない方向からの言葉だった。
何も言い返せないでいるあいだも、雑言は続く。
「その点、あいつはいくらでもOKだからな」
「……本当、に、そんな理由なの?」
「やっぱり遠恋は駄目だな。遠くの彼女よりも近くのセフレの方が――」
軽薄で下品な言葉を受け止めながら、香子先輩はつかつかと歩み寄っていく。
そして、手を伸ばせば届くほどの距離で立ち止まった。
右手を振り上げる香子先輩。
対する高明先輩は薄ら笑いのまま――しかし、僕はその目に諦めの感情を見た。
以前にも、高明先輩が同じ目をしていたのを見たことがある。
――あれは去年のインターハイ地区予選、準決勝。
残り五秒で二点差を追っていた場面だ。
ラストワンプレイ。
高明先輩はシュートではなく、僕へのパスを選んだ。
入れば逆転になるスリーポイントシュート。
それがリングに当たって大きく弾んだ瞬間、僕は高明先輩を振り返っていた。
試合に負けたことよりも、この日を高明先輩の引退試合にしてしまった事実の方が、僕にとっては重大だった。だから、試合終了の瞬間に、先輩がどんな感情でいるのかを真っ先に確かめたのだ。
先輩は、一見すると呆然自失しているようだった。
だけどかすかに苦笑もしている。
小さなため息と、わずかな脱力。
やっと楽になれた。
あの瞬間の表情から何かを読み取ろうとするなら、やはりその一言になるだろう。
何度思い返してみても答えは変わらない。
答え合わせは、怖くてずっとできなかったけれど。
――そして今。
香子先輩の振り上げられた右手を見上げる高明先輩は。
あの試合が終わった瞬間と同じ目をしていた。
後ろの僕が気づいたくらいだ。目の前にいる香子先輩だって気づいただろう。
だから、なのかはわからないが。
右手が振り下ろされることはなかった。
「……香子?」
高明先輩の問いかけを無視して、香子先輩はこちらへ戻ってくる。
浮気をして反省の弁もない彼氏に見切りをつけて、そのまま帰るつもりだろうか。
「貸して」
僕が預かっていたバスケットをひったくると、また高明先輩の方へ。
手作り弁当を持って、近づいていく。
まさか、それを見せて仲直りでもする気だろうか。
もはやそんなことでは修正できないくらい、状況は冷え切っているのに。少なくとも高明先輩はこの場で終わらせるつもりだったはず。だからあんな下品な人間を演じているのだ。
それでも香子先輩はあきらめられないのだろうか。
そう思うと、健気な行動に胸が締め付けられそうになる。
香子先輩の想いに、高明先輩はどう応じるのだろう。
僕は二人にどうなってほしいのだろう。
部外者は固唾を飲んで見守ることしかできない。
――そんな平凡なことしか考えていなかった僕にとって、香子先輩の行動は想像を超えていた。おそらくは高明先輩にとっても。
バスケットを両手で提げた香子先輩は奇妙なステップを踏んだ。
高明先輩に対して
「え」
「は?」
砲丸投げと異なるのはその軌道だ。
ぶぉんと振り回されたバスケットは、空へと放たれるのではなく、高明先輩の腹部へと叩き込まれていた。
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