06.香子先輩と帰り道
「大丈夫ですか? バスケットに血痕とかついてませんか?」
帰りの列車に乗り込んでひと息ついたところで、香子先輩にそう尋ねる。
弁当箱の入ったバスケットで彼氏をぶん殴るというショッキングな行動のあと、腹を抱えてその場にうずくまる高明先輩に対して、香子先輩はひと言も声をかけることなく立ち去ってしまった。
残された僕としては、高明先輩の状態も気がかりではあった。
だけど、香子先輩を野放しにすれば、きっと迷子になってしまう。
どちらを優先するかは考えるまでもなかった。
急いで後を追うと、案の定、最初の十字路でいきなり逆方向へ進んでいる香子先輩を引き止めて、最寄り駅まで誘導したのだった。
「気にし過ぎよ、そんな硬い材質じゃないんだから」
香子先輩は澄まし顔で応じつつも、バスケットをペタペタと触って状態を気にしている。
「それに中身だって……」
早起きして準備した手作り弁当だが、中身は見るまでもなくぐちゃぐちゃになっているだろう。
「ある意味
力なく笑う香子先輩だが、ぜんぜん面白くない。
愛想笑いをしていいのかどうかもわからない、厄介な冗談だ。
そんなつまらない話を続けながら、本題を切り出すタイミングを探していた。
迷っていたと言ってもいい。
迷っているあいだに雨が降り出していた。はじめは小降りだったが、時間とともに、あるいは移動距離によってか、だんだん降り方が強くなってきた。列車の窓に雨粒がぶつかり、水滴が流れていくつもの筋を作っている。
あの狭い路地の真ん中では、今もまだ高明先輩が痛みにしゃがみ込んでいるのではないか。そして、その上に雨が降りしきっている――そんなイメージが浮かんだ。
「さっきの、高明先輩ですけど」
その名前を聞いた香子先輩の表情が固まった。
「あんな下品な言い方をしたのは、わざとですよ。あえて悪者を演じて――」
「わかってるわよ、そんなこと」
静かだけど有無を言わせぬ口調で、僕の話をさえぎってくる。
「でも、それがなんだっていうの? なんの慰めにもならない。こっちから別れたくなるようなダメ人間を演じて――高明はそうまでしてわたしとの関係を終わらせたかったってことでしょ」
「そんな手の込んだことをしたのには、何か理由が」
「あったとしても興味ない。わたしよりもあの女を選んだっていう事実がすべてよ」
これで話はおしまい――みたいに言い切ったくせに、しばらくすると、ちらちらと、指先でつつくような視線を向けてくる。
なのでこちらから目を合わせたら、香子先輩はさっと目を逸らして、窓の外を見ながら聞いてくる。別に大したことじゃないし、気にもしてないんだけど――そんな言い訳が聞こえてきそうな態度。
「……あの女のこと、どう思った?」
あの女。高明先輩の部屋にいた女性のことだろう。
直後のショックが強すぎて、あの女の人の印象はあまり残っていない。露出の多い服装だったので、そういう意味ではいろいろと目に焼き付いていたが、今それを言ったら今度は僕がバスケットの錆になってしまう。
「まあ、親しみが持てる感じの女性だったんじゃないですか」
初対面の僕たちに対しても笑顔だったし。あと胸も大きかったし。
「親しみ? ああいうのは隙って言うのよ」
香子先輩は鼻で笑った。女の演技に気づかないバカな男をバカにしている笑いだった。
「親しみっていうか……、家庭的というか」
「家庭的? 手料理で男を篭絡してそうってことね」
香子先輩はあきれたように言った。女性らしさの押し付けという社会問題の根深さを感じる発言だった。
「家庭的っていうか、身近っていうか」
「コンビニみたいに気安い女ってことね」
コンビニエンスストアはどこにでもあるという点では確かに身近ではあるが、価格の面ではスーパーマーケットやドラッグストアに比べて割高であり、そういう意味ではむしろとっつきにくい商業形態である。香子先輩はあまり値段とか気にしなさそうだな。スーパーでカゴを持って買い物をしているイメージが全く浮かばないもんな。
「あの人がコンビニなら、香子先輩はデパートみたいですね」
「何それ。ホメてるの?」
「はい」
「……まあ、そういうイメージも、わからなくもないわ」
香子先輩の口元が少しだけゆるみ、声のトーンもわずかに弾む。
「デパートは敷居が高すぎて近寄りがたいし、売り上げも右肩下がりですけどね」
「ちょっと? ホメてたんじゃないの?」
しまった、つい本当のことを。
……無理矢理でも、話を変えるならここしかないか。
自らの失言をごまかすために、意を決して切り出した。
「高明先輩に食らわせちゃった弁当ですけど、僕が食べてもいいですか?」
強引すぎる話題の転換だけど、無視もできない内容だったのだろう。
香子先輩はムスッとした顔のままで問いかけてくる。
「きっと中身ぐちゃぐちゃよ?」
「朝から何も食べてないんで、腹が減ってるんです。ひもじい後輩に恵んでくださいよぉ」
目じりを下げて語尾も下げて、情けない態度を見せることしばし。
香子先輩は、ふぅ、と短くため息をついた。
「強引ね」
香子先輩の言うとおり、僕にしてはめずらしく強引な要求だった。多少の無理を押してでも、今回のお出かけに〝遠距離恋愛の終わり〟というネガティブなもの以外の意味を持たせたかったのだ。
狙ったのは、その象徴となってしまった手作り弁当。
浮気していた彼氏に叩きつけた鈍器――ではなく、空腹の後輩の胃袋を満たした食べ物として記憶に残った方が、手作り弁当も弁当甲斐があるだろうと思ったのだ。弁当甲斐ってなんだろう。
それに加えて、ただ純粋に香子先輩の手作り弁当を食べたいという欲求もあった。
「……でも、そうね。わたしもお腹すいちゃったわ」
自分の下腹部に左手で触れる香子先輩。その仕草はいろいろと意味深だった。
「何よその顔」
「あ、いや」
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