04.香子先輩と彼の部屋まで

 地元の駅を出発してから数時間かけて、ようやく高明先輩のアパートの最寄り駅に到着した。時刻はもうお昼どき。手作り弁当を振る舞うにはいいタイミングだ。


「あ、先輩、そっちじゃないです」


 さっそくアパートと逆方向へ歩いていこうとする香子先輩を呼び止める。


 二度の乗り換えで二度とも別の列車に乗り込もうとしたときは大いに焦ったが、間違いも三度目となると注意する側にも余裕がある。目を離してはいけない、という心構えで相手を見ているからだろう。


「……キミは高明のアパートへ行ったことがあるの?」

「いや、初めてです。地図で下調べしたので」


 事前にアパートへの道順を把握するくらい当然のこと――そういう態度が良くなかったのか、香子先輩は口をとがらせて、対抗心を見せる。


「わたしも地図くらい見れるわ」


 スマホを取り出して地図アプリを立ち上げ、周囲を見回して目印になる建造物を確認し、ニヤリと口元を上げた。


「あらあら島津君、間違ってるわよ」


 得意満面でこちらに向けるスマホの地図上に、赤いラインが引かれている。これが高明先輩のアパートへの最短ルートだろう。

 

「あ、ちょ、それ地図の向きが逆――」


 どうして方向音痴の人は、自分がいま向いている方を北だと思い込むのだろう。

 何回間違えても妙な自信を失わない香子先輩を、僕は三度みたび引き止めるのだった。





「次の角を右です」


 どうしても前を進みたがる香子先輩に、進行方向を指示しながら歩いていく。


 後ろから見ていると、その立ち居振る舞いはやはり堂々としていて、すれ違う人の視線が先輩に向けられるのがわかる。ちらり、ちらりと盗み見る目立たない外見の男子。憧憬の感情がだだ漏れの女の子。獲物を狙う肉食動物みたいに好色な目つきのサラリーマン。

 学校での立場が通用しない場所でも、その容姿だけで注目を集めるのが瀬川香子という人だった。

 そんな彼女の隣に立とうだなんておこがましい。僕なんかは、ちょっと離れたところから他人のフリをしてついて行くくらいでちょうどいいのだ。


「そろそろ着きますけど、僕はどこかで時間を潰してますね」


 目的地まであと少しというところで、僕はそう提案する。

 すると香子先輩はなぜか慌てて振り返った。


「えっ? どうして?」

「どうしてって……、彼氏と会うのに邪魔じゃないですか」

「わたし、そんなこと言ってない」


 確かに香子先輩から「二人きりで会うからついて来ないで」とは言われていない。

 しかし、いちいち言われなくても気を利かせて当然の常識というものがある。

 遠恋中の二人の再会の場において、僕は明らかに邪魔だ。


「でも、せっかく久しぶりに会うのに」

「今日のこれは奇襲だから」


 香子先輩は表情を引き締める。

 彼氏と会うときに使う言葉じゃないな……。


 ともかく、話しぶりや態度からして、香子先輩は本当に、僕と一緒に、高明先輩と会う気でいるらしい。


「高明先輩に空気読めって思われませんかね」

「彼はそんな小さい男じゃないわ」

「……わかりましたよ」


 僕を疎外する気がなかったことは、うれしくないわけじゃないが、残酷だ。僕の気持ちに興味がないのかもしれない。


 モヤモヤした気分を抱えたまま、香子先輩に付き従う。

 もっとも、僕ごときの鬱屈した感情なんて吹き飛ぶような事態が、直後に起こってしまうのだが。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 辿り着いた目的地は寂れたアパートだった。オートロックもエレベータもない、昭和の昔からずっとここに建っていたかのような風情がある。昭和知らないけど。その古びた佇まいは、僕が高明先輩に抱いていたイメージとは大きなズレがある。


 貴明先輩は本当にここに住んでいるのだろうか。

 

「住所、間違ってるんじゃないですか」


 少し不安になって香子先輩を見た。


「ここで間違いないわ」


 返事の声は少し硬い。


「何度か荷物を送ったことがあるから、住所は覚えてるもの。203号室よ」


 カン、カン、カン、と乾いた音を立てる階段を上っていき、203号室の扉の前に立つ。


「あ、弁当持ちますよ」

「お願い」


 バスケットを受け渡して身軽になった香子先輩が、呼び鈴を押した。

 しばらく待っても反応がないので、もう一度。

 しかし、室内で音が鳴っている感じがしない。


「このインターホン死んでるんじゃ」

「みたいね」


 香子先輩がドアをノックする。コンコン、という軽い音。

 それでも反応がなかったので、だんだん叩く力を強くしていく。

 4回目で、ようやく中から返事が聞こえてきた。


『はーい』


 僕は思わず香子先輩の横顔を凝視した。

 今の声。

 ドア越しでくぐもっていたが、明らかに、その、


「何?」


 こちらの視線の意味には気づいているだろうに、香子先輩は無表情のまま、ドアをまっすぐ見据えている。

 

「……いえ」


 気まずい時間は数秒ほどだったはずだが、僕の体感では十分にも二十分にも感じられた。恐ろしい相対性。鬼が出ても蛇が出てもいいから、この重苦しい空気から早く解放してほしいと心から願った。


 がちゃりとドアノブが回り、中から押し開けられる。

 出てきたのは、二十歳くらいの女性。


 声のトーンでわかっていたが、それでも高明先輩の部屋から若い女の人が出てきたことはなかなか衝撃的だった。しかもシャツ一枚にハーフパンツというラフな格好に、髪の毛はぼさぼさ、顔はすっぴんという、完全に寝起きの状態なので、すごく目のやり場に困る。


「……えーっとぉ、どちらさま?」


 女性は香子先輩と僕を交互に見て、戸惑ったように首をかしげる。その仕草が妙に色っぽい。いろいろ言いたいことはあったが、余計な口出しをして話がややこしくなるのが怖くて、黙り込んでしまう。

 そんなチキンな僕とは対照的に、香子先輩は平然としていた。


「急にうかがってしまって申し訳ありません。わたしたちは倉知さんの後輩なんですが、近くに来る用事があったもので、ついでに立ち寄ってみたんです。先輩はいらっしゃいますか?」


 すらすらと嘘の来訪理由を語る香子先輩。

 すごい、と感心する。この状況に動揺してないわけがないのに、表面上は冷静で、笑顔すら浮かべている。


「あー、たっくんの後輩かぁ」


 後輩。その言葉で、女性がわずかに帯びていた緊張がゆるむ。

 特に香子先輩のことを警戒していたのだろう。こんな美人が急にやってきたら、自分の男・・・・とどういう関係なのか、不信と不安を持つのは当然である。


 それが彼氏の後輩という、格下の相手だとわかったから、こちらに対する警戒を解いたのだろう。まるで自分の後輩に接するかのような気安い雰囲気になる。


「ちょい待っててね、呼んだげるから」


 そう言って部屋の奥へ引っ込んでいく。

 高明先輩は中にいるらしい。


 不在の方がよかったのに、と思う。ここまでの道のりが無駄になってしまうとしても、顔を合わせないで帰れるならその方がずっとましだった。


 年頃の男女が、昼間っからあんなラフな格好で、同じ部屋で過ごしている時点で、どうしようもなく取り返しのない状況だった。香子先輩の顔が直視できない。



 そして。


 間違いであってくれと願っていたが、やがて部屋の奥から現れたのは、やっぱり高明先輩だった。


「……香子」

「高明」


 呼び合う声は割れそうなほどに硬い。

 遠恋中の二人の再会というには、この場の雰囲気はあまりに張り詰めている。

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