第25話 捕縛と契約
「ここにいて。すぐ終わるからね」
緑地公園の木陰におろされ、私はうなずいた。
「は、はい」
人の声、街の音、枝葉を揺らす風の感触。それらがいっさい消えた世界は、まるで現実世界にぽっかりとあいた穴みたいだ。レースのカーテンが視界を遮っているかのように、隣接する建物の灯りがどこかぼやけて見える。
公園内の街灯も、いつにも増して暗く思えた。そのかわりに、闇夜に輝く月明かりが、敷地内をほの青く照らす。
現実であって、現実じゃない。この世とあの世の境のような地面に、両手と両足をストールできつく縛られた
そのまわりに、櫂さんと
同情はするけれど、助けたいとは思わない。威井田には威井田の事情がきっとあって、自分をとりまくいろんなことに腹をたてながら生きてきたのかもしれないけれど、いつだってやりなおせる機会はあったはず。
櫂さんの言っていたように、選択肢はあったはずなのだ。
だから、さっき櫂さんが威井田にしたことを、残酷だなんて思わない。
そう思えるような幸せな過去が、私にはないから。
助けを求める威井田が懇願する中、櫂さんは腕輪に指をかけた。
「
その言葉とともに、美月さんと羽伊さんが数歩しりぞく。
櫂さんの腕輪がのびていく。大きな輪を胸の前でかかげたとき、それまで凪いでいた風が、突如地面から吹きあがる。
威井田は逃げようとして、地面を這った。その周囲に土埃が舞う。
風はやがて突風になり、嵐のように枝葉を揺らし、私の髪も袖も裾も激しくはためく。
きつく目を閉じた威井田が、身を守るように身体を丸めた。直後、両目を見開いた櫂さんが言った。
――染めろ、黒龍。
輪の中から、漆黒の龍があらわれた。身体をうねらせながら舞いあがり、櫂さんのまわりを一周してから、威井田に向かって咆哮した。
龍の口から、墨を撒き散らしたかのような闇が放たれる。それを全身に浴びた威井田は、叫ぶ間もなく息絶えたように力を落とした。
ふたたび地鳴りにも似た声をこだまさせ、龍が輪の中に戻る。ほどなく輪は小さくなり、櫂さんの左手首におさまった。
え……いまのって、現実? 私、この目ではっきりと龍を見てしまった?
あまりにも現実離れしていて、夢の中の出来事みたいで、ただただひたすらあ然としてしまう。
呆然としてへたり込んでいると、今度は羽伊さんが動いた。美月さんから離れて樹木に近づき、幹の下にある物体を前にして片膝を落とす。
それは、羽伊さんが捕縛したもの。ストールに巻かれたカラスだった。
ストールを外した羽伊さんは、カラスの頭を軽く撫でてから、小さな額を指で突く。カラスが目覚めた。
「さあ、もう自由だ」
両手で持ちあげた羽伊さんは、カラスをかかげながら言った。
「もう悪いやつに捕まるなよ。自分の居場所におかえり」
カラスを放つ。両翼を広げたカラスは、鳴き声をこだまさせながら夜空に消えた。
――自分の居場所におかえり。
私にも、そのときが近づいている。ふと息をつきそうになった矢先、羽伊さんが近づいてきた。
「大丈夫ですか」
「は、はい。大丈夫です。あの……終わったんですか」
「ええ、終わりました」
威井田は地面に倒れたまま、微動だにしない。
「あの人、どうなるんですか」
「依頼元がくるので、引き渡します。そのあとは法にのっとった手続きがなされ、相応の処分を受けます。その前に入院が必要かもしれませんが」
いつの間にか、空が白みはじめていた――と、一台の自家用車が敷地内の車道に入り、停まった。運転席と助手席から二人の男性がおり、折りたたみ式の担架を持ち、散策路を通って近づいてくる。二人ともスーツ姿で、一人は壮年、もう一人は若かった。
彼らは私たちに目もくれず、地面に横たわっている威井田に向かっていく。威井田の様子をうかがってから担架にのせ、立ち去った。その間、言葉を交わすことも目をあわせることもなかった。
……まるで、私たちが見えていないみたい。
なにげなくそう思ったとき、櫂さんが私を見た。
「ただの人に戻った威井田以外、見えていないよ」
あ、そうか。ここはガチな陣界……と納得しそうになり、はっとする。口にしてもいない私の考えに、櫂さんが答えられた理由はただひとつ!
「ま、まだダダ漏れですかっ!?」
もうすぐ朝なのにという思いを込めると、櫂さんは爽やかに微笑んだ。
「うん、漏れてます」
「漏れてるってなにが?」
美月さんがけげんそうに眉を寄せた。羽伊さんもいぶかしげに櫂さんを見つめる。そんな二人を尻目に、櫂さんは笑顔で両手を叩いた。
「さ、終わったからさっさと帰ろう。いい加減ゆっくりお風呂に浸かって、飽きるほど眠りたいよ」
あくびをしながら歩きだす。羽伊さんが私を見た。
「……漏れてるって、なんですか」
みんなには内緒にしてと言われたけれど、もうすぐ朝だし威井田も捕まったわけなので、直接的な表現を避ければ許される気がする。
「……私の考えていることが、櫂さんにダダ漏れしてるんです」
羽伊さんの眉がこれ以上ないほど寄った。
「でも、朝までらしいのでもうすぐなくなると思います」
公園を歩きながら告げる。気難しい表情で押し黙った羽伊さんが、ふと足を止めた。振り返ると、瞠目して固まっていた。どうしたんですかと私が訊ねるより先に、異変に気づいた美月さんが羽伊さんに近づいた。
「おい、どした」
と、目を吊りあげた羽伊さんは、私と美月さんの間をすり抜け、櫂さんに向かって突進した。
「……冗談にもほどがありますよ、兄さん!」
立ち止まった櫂さんが振り返る。
「なにが?」
「倉本さんが完全に近いだなんて、おかしいと思ったんです。まさか、ご自分の分け御霊を食べさせるなんて、どういうことかわかってるんですか!?」
「べつにいいでしょ」
悪びれない櫂さんに、「いいわけないでしょう」と羽伊さんが詰め寄る。やっぱりよくないことだったんだ……と半眼になっていると、隣の美月さんも顔面を蒼白させた。
「マジ?」
私を見る。と、羽伊さんがいつになく取り乱した様子で、私に向かってきた。
「吐いてください、倉本さん」
「えっ」
私の両肩をがっしりとつかみ、ふたたび訴えた。
「なんとかして、吐き出してください!」
「落ち着け、羽伊。飲み込んじまって何時間も経ってる。もう吐き出せない」
もしかして、私が思っている以上におおごとなんだろうか。不安になってきた。でも?
「朝までだからと言われたので、吐かなくてももうすぐ効かなくなるはずなんですが……?」
息をついた羽伊さんが、数歩先にいる櫂さんをにらむ。逆に櫂さんはにっこりとした笑顔を返してきた。
「……俺の口からはとても言えない」
そう言い残した羽伊さんは、鬼の形相でまたもや櫂さんに向かっていく。すると櫂さんは早足で逃げ、羽伊さんがそれを追いかけていく。あれよという間に置いていかれてしまった。
「私が完全なカゲモノになるために必要なブーストだと言われたので、食べてしまったんですけれども……やっぱりダメなことだったんですね」
眉を寄せた美月さんは、気難しい顔で腕を組んだ。
「ダメっつーか……そういう使い方もできなくはないけど、めちゃくちゃイレギュラーで本来じゃないんだよなあ。本来はなんつーか……」
苦悩の表情で、首をぐぐぐと深くかしげた。
「……一番近い表現は、〝唾をつけた〟っつーことになんのかなあ」
わけがわからず、困惑する。美月さんがこれみよがしに嘆息し、真剣な表情で私を直視した。
「俺たちも年頃になれば結婚する。相手は一族外から選ぶしかないから、おのずと普通の人になる。完全なカゲモノじゃなくても、俺たちの真実を知る存在でいてもらうために、自分の分け御霊の一部を食ってもらうんだ。けど、これは婚姻が決定している最終段階にかぎられる。これをすると、相手は未来永劫どこへも逃げられなくなるからな。まあ、契約という名の一種の呪いみたいなもんだ」
「…………はい?」
予想外の単語のオンパレードで、今度は私が固まってしまった。すると、美月さんが眉を八の字にする。
「オブラートに包んだ表現ができなくて、悪いな」
「……すみません。オブラートに包まれていなくても意味不明です」
「そうか。だよな」
「はい」
「じゃあ、超直球で言うわ」
私はごくりと息をのむ。美月さんが言った。
「つまり、紬っちは櫂兄のお嫁さんだ」
なにを言ってるんですか。
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