第24話 守る夜、守られる夜
午前零時、手前。
上空から猛スピードで落下する
公園が見え、その周囲に建つアパートやマンションの中に、見覚えのある建物がずんずんと近づいていく。
あれは――ここだ!
はっとして外を向き、ベランダにおり立った刹那。
――シュッ。
部屋に戻ろうとする矢凪さんの首めがけ、どこからともなく牙を剥いた大蛇が飛んできた。私はとっさに腕輪をのばして手首をひねり、短刀にして首を切り落とす。甲高い咆哮とともに、ベランダの床に縄が転がった。そのとき、
「……わっ! な、ななっ!?」
攻撃を防御するときは、どうしても姿が見えてしまう。
術がかけられた足元の縄は、ほどなく空気にとけて消えた。
本当に恐ろしいとき、人は恐怖で叫べない。震える矢凪さんの手から、スマホが落ちる。それを拾うこともなく、小刻みに息をする矢凪さんは、ただひたすら私を見つめていた。
なにか言わないと。でも、なにをどう言ったらいいんだろう?――と、ふたたび威井田の視界が動く。陣界の張られた公園を警戒してか、どこかの建物の屋上に身を潜めているようだ。
この視界の角度からすると、斜め右。視線を動かした直後、風を引き裂くような鋭い静寂が流れた。
――なにかくる。
私はとっさに両袖を腕に巻きつけて交差させ、矢凪さんの前に立ちはだかる。
「動かないでください」
そう告げて身構えたとき、どこからともなく
「遅れて悪い!」
私のように両袖を腕に巻きつけ、手摺の上で防御の構えをとった。直後、
――ドドドッ!
無数の刃が闇を引き裂く。私と美月さんの袖に突き刺さった手裏剣は、ほころびだけを残して消えていく。
「詰める前に逃げやがった。俺たちに囲まれてるとわかってか、向こうも完全にあがるつもりできてる」
美月さんが息をついたときだ。刃が向かってきた方向に、月に照らされた黒点が猛スピードで落ちていくのが見えた。
威井田の視界が、私の脳裏にふたたび浮かぶ。鬼のような形相の櫂さんが、腕輪に指をかける光景が間近に迫る。
あの黒点の正体は、櫂さんだったんだ。
威井田がコピーを使って攻撃する。それをものともしない櫂さんに詰められ、建物から飛びおりた。そうして住宅街を駆け抜けていく本体の視界は、こちらにすべて漏れている。
「櫂兄と挟みうちにする。
そう言った美月さんは、私のうしろにいる矢凪さんを一瞥した。
「その人の記憶、消せるか?」
櫂さんの分け御霊でブーストされたいまの私は、完全に
「うす。気をつけろよ」
美月さんが姿を消した。
一瞬の静けさに嘆息し、振り向く。矢凪さんは完全に固まっていた。そんな彼の記憶を消すため、羽伊さんのように指で額をつこうとした、矢先。
くいいるようにこちらを見つめる矢凪さんが、
「……どこかで」
そうささやき、私の手をそっと振り払った。
――え。
と、彼は私を見つめながら、はっとしたように目を見張った。
「……あ、コンビニ……?」
驚きのあまり、息が止まる。
鼻と口はストールで隠しているけれど、ときおりマスクをして働いていたから、私の目だけで察してくれたということになる。眼鏡すら、もろともせずに。
透明なはずの私を知っていてくれた人がいたなんて信じられない。しかもその人が私の好きな人だったなんて、もっともっと信じられない。
「……なんで――」
彼が困惑する。私が返事もできず固まっていると、
「はい、終了」
いきなり私の背後から腕がのび、矢凪さんの額を指でつく。振り向かなくても声でわかる。櫂さんだ。
「詰めついでに立ち寄ってよかった。想定外にはじまりそうないちゃつき禁止。状況わかってる?」
「え」
櫂さんは矢凪さんのスマホを拾い、フリーズする彼をゆっくりとリビングに入らせた。そうして無事に記憶を消し、すぐさま外側からカーテンを閉じて窓を閉め、自分の輪郭を薄くさせる。
「……えっ? い、いちゃつき……?」
声を殺して伝える。手摺に立った櫂さんは意味深な笑みを浮かべ、自分の丹田と私の唇を交互に指差す。そうして目線を窓にそそぎ、ハリウッド俳優みたいに肩をすくめて見せてから飛び去った。
……え、待って。いまのなに?
戸惑いつつ、櫂さんの動きを反芻してみる。三回繰り返し、もしやと気づいた。
もしかして、櫂さんの分け御霊のかけらを食べた私の思考回路、櫂さんに筒抜けなのでは……?
いや、いやいやいやそれはない。たぶんない……と思いたいけれど、その説が濃厚すぎて頭を抱えたくなってきた。
できれば信じたくない。だって、もしもそれが本当なら、こんな苦悩もバレバレってことになるからだ。
それは精神衛生上よろしくない。いまはいったん忘れよう。
気をとりなおし、ふたたび威井田の視界を脳裏で追った。
ひっそりと静まり返った住宅街の片隅で、前方に美月さん、後方に櫂さん、さらに街路樹の上にはカラスを捕縛した羽伊さんがいた。
ここまで追い詰められたら、威井田もさすがに逃げられないはず。まさに八方塞がり――と思った直後、視界がまたもや暗転した。
もしかして、捕縛された? そうかもしれない。でも、まだわからない。
しばらく暗転が続く。状況がわからないのでじりじりしながら動きを待っていると、ふと背後の気配が静まった気がした。たぶん、矢凪さんが眠ったのだ。
なんとなくホッとして息をついたとき、突然風が消えて空気が凪いだ。
なぜかいっさいの音が聞こえなくなる。世界のなにもかもが止まったかのような錯覚を覚えた刹那、どこか遠くから一筋の闇が飛んできた。
はっとした次の瞬間、
「――さんざん邪魔してきたあげく、俺の視界を盗んでやがったな。カゲモノめ」
目を閉じた威井田が手摺を越え、ベランダにおり立つ。私に身構える余裕を与えず、ストールをはぎ取って首根を絞めあげ、手摺に追いやった。
「おまえの仲間はわけもわからずコピーを追ってる、いい気味だ」
息のできない苦しさで、目に涙が浮かんでいく。威井田は身悶える私をもろともせず、首根をつかむ両手の力で軽々と私を持ちあげた。
「ここで術を使ったら、コピーの精度が落ちちまう。もうしかたねえ、こうやるしかねえんだ」
上半身が手摺から飛びだし、どんどん足が浮いていく。バランスが崩れ、いまにも落ちてしまいそうだ。
「すまねえな。さっさとここをどいてくれ」
両目をしっかり閉じたまま、薄く笑う。
――目の前の男を、ここに残すわけにはいかない。
意識を朦朧とさせながら、私は必死で威井田の背中に両腕をのばし、左手の腕輪に指をかけた。
しめ縄がのびる。ぐっと右手に握りなおし、全身の力をふりしぼりながら縄を引き寄せ、威井田の背中を羽交い締めにした。
「……おい、くそがっ。なにをする、離せ!」
威井田の手の力が強まる。私は苦しさに身悶えながら、きつく目を閉じた。
――絶対に、離すもんか。
着地できる体勢じゃない。うまくすれば公園内の樹木にかかって生きのびるかもしれないけれど、あたりが悪ければそのままだ。でも、こんなささやかに生きていた命で、矢凪さんを守れるのなら本望だ。
離すくらいなら、道連れにする――!
「それはダメ」
突然、聞き覚えのある声がした。とっさに薄目を開けると、櫂さんが手摺にいた。
息をのんだ威井田が、目を開ける。櫂さんが左手を一振りさせると、腕輪が鞭に変化した。威井田が私の首根から手を離す。瞬間、櫂さんはその両手首に鞭を打ちつけた。
威井田はいまにも叫びだしそうな表情で倒れ込み、力なく両手首を揺らす。ベランダにおり立った櫂さんは、その口に丸めたハンカチを押し込んだ。
「近所迷惑だから静かにね。いまので両手首の腱は断絶されたから、もう術は使えない。さあ、捕縛タイムといこう。おまえには特別なのを用意してるから、お楽しみに」
威井田の襟足を片手で持ちあげ、のぞき込んだ。
「おまえには同情してる」
威井田が目を見張った。
「その才能を正しく導いてくれる者が、一人も身近にいなかったんだろう。でも、人生の選択肢はいつも用意されていたはず。いまのおまえがここにいるのは、その選択の結果だ」
そう言った次の瞬間、月光を浴びる鬼のような横顔を見せ、威井田の頭を額ごと鷲づかむ。ぐっと力を込めたかに思えた刹那、威井田は気絶したかのようにその場に倒れた。
直後、美月さんが手摺におり立つ。
「……うおっ、気絶してやがる。なにしたんだよ」
「手首の腱を断絶させたついでに、眠らせただけだよ」
美月さんがぎょっとする。
「……眠らせんのはいいけど、腱を断絶させんのはやりすぎだろ。どうせ捕縛すんのにらしくねえな。どーした?」
櫂さんが深く嘆息した。
「頭にくることがあったんでね。ひとまずこいつを連れてって。すぐ行く」
美月さんが威井田を担ぐ。手摺にあがってから私を見て、「大丈夫か」と訊いてくれる。ベランダのすみにしゃがみ込んでいた私は、なんとか笑みをつくってうなずいた。
気絶した威井田を担ぎ、美月さんが公園に消える。ふたたび息をついた櫂さんは、床に落ちたストールを拾い、私の目の前で片膝をつく。
「……見せて」
私の首に触れる。一瞬見えた鬼のような表情は、もう消えていた。
「痣になるかも」
「す、すぐに消えます……」
櫂さんはなにも言わず、私の首にストールを軽く巻いてくれた。
死ぬかと思った。でも、生きてる。それもこれも、間一髪で櫂さんがきてくれたからだ。
いまさら震えてくる。
さっき、私――死のうとした。
威井田を道連れにして、死のうとしたんだ。
いまさら激しい震えに襲われてきたとき、櫂さんが言った。
「僕の分け御霊を食べてくれたおかげで、間にあった」
「えっ」
うそ。やっぱり、私の思考回路ダダ漏れしてる? 目を丸くして固まる私に、櫂さんはやっと笑みを向けてくれた。
「そう。きみの思考回路は僕にダダ漏れ中」
「えっ!」
「朝までだから、べつにいいでしょ」
「よ、よくないですよ。ちゃんと最初に言ってくださいっ」
「だよね。うっかりしてた」
そんなわけない。半眼になった私を見て、櫂さんはさも楽しそうに微笑むと、私の背中と両足に腕をまわし、軽々と抱きあげた。
えっ……ええ!?
「だ、大丈夫ですっ」
「捨てられた仔犬みたいに震えてるのに、大丈夫って言っちゃう人はおバカさんです」
きゅっと優しく力を込めて、私を抱き寄せる。軽やかに手摺にあがった櫂さんのため息が、私の耳にかかる。
「――自分のことを不甲斐ないと本気で思ったのは、はじめてだ」
ひとりごとのようなつぶやきを落とし、手摺を蹴った。
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