第23章 カゲながら恋してた
二十三時過ぎ。
「どうしてあそこに
すべての部屋の窓が公園側を向いているので、道路側からまわり込み、いったん公園内に入った。
十二階建ての十階、角部屋を視界に入れる。直後、私の真横に
「……兄に聞きました。お願いしますとしか言えなくて、すみません」
私の気持ちを知っているからか、心から申しわけなさそうに眉を寄せた。
「大丈夫です。ここはまかせてください」
私が笑顔を向けると、羽伊さんは険しい表情のままうなずいた。
「このエリアには多数の
いつかの櫂さんの言葉を思い出してしまった。全身肉離れ状態の捕縛……。
「もしかして、捕縛にも段階があるんですか?」
「ええ。もっとも強い捕縛は兄がおこないます」
なにやら怖そうだけれど、深く突っ込まないことにする。
警戒の意味でもベランダにいてほしいと、羽伊さんは言った。
「わかりました」
「攻撃を受けたときを想定して、念のためベランダにのみ陣界を張っていますが、マンション内のため安定していません。姿が見えないよう気をつけてください」
「はい」
うなずきで応えた羽伊さんが、背中を向ける。と、ふと思いなおしたように動きをとめ、肩越しに振り向いた。
「砂己が助けたのが、あなたでよかった」
――えっ。
声にする間もなく、羽伊さんはその場から姿を消した。
もしかして、褒められたんだろうか。いや、褒められたというよりも、認められた? そうだとしたら、今夜自分に課せられたことを、なおさらきちんとやりぬきたい。
「……よし」
深呼吸をして息をととのえる。十階のベランダを見上げながら助走をつけ、私は飛んだ。
* * *
コンクリートの頑丈な手摺に腰かけた。
すぐ下に広がる公園を見下ろしてから、そっとうしろを振り返る。自分の姿が見えないとわかっていても、どきどきして息を殺してしまう。
この遮光カーテンの奥に矢凪さんがいると思うと落ち着かないし、警察に捕まっても文句なんて言えない状況にいまさらおののく。でも、今夜限定で必要なことだし、ここからは絶対に動かない。窓を覗くような真似もしないので許してくださいと、伝わるはずもないのに心のなかで繰り返した。
こじんまりとしたベランダには、アウトドア用の折りたたみ椅子と、小さなテーブル、ランプ、観葉植物が置かれてある。天気のいいときはここでリラックスしているのかな……なんて妄想してにやついている場合じゃない。
もうすぐ零時だ。気をひきしめないと。
威井田の視界を盗むため、レシートを手のひらにのせた。眠っているのか目を閉じているだけなのか、視界は暗転している。次の動きが読めないので用心しつつ、美月さんのようにハンカチできつく結びはじめたとき、それは起きた。
突然、カーテンが開いたのだ。
ぎょっとした私は、ハンカチの端をくわえたまま固まる。そんな私に気づかない矢凪さんは、Tシャツとスウェットパンツというラフな格好でスマホを触り、ベランダにでてきてしまった!
うっわ、うっわ、近い。めちゃくちゃ近い!
お風呂あがりなのか、少し濡れた髪がくしゃくしゃに乱れている。イスに座るとテーブルに缶ビールを置き、スマホを見ながら開ける。なにを見ているのか小さく笑い、おいしそうにビールを飲んだ。
妙な感じ。私はここにいるのに、矢凪さんは気配にすら気づいていない。そう思ったとたん、櫂さんの言葉を思い出した。
――僕たちの存在は、闇で影で亡霊。
その言葉の意味が、いまさら深く胸にしみていく。なんだかまるで、誰の目にも映らないように生きてきた私みたい。いや、みたいじゃなくて、似てるんだ。
カゲモノの生き方は、私の生き方と似ているんだ。
思わず嘆息しそうになった矢先、矢凪さんのスマホが鳴った。
『うす。起きてたか』
コンビニで聞いたことのある男性の声だ。ときどき矢凪さんと一緒にくる人かもしれない。
「うん。どうしたの」
『来週末キャンプいかないかなーっていうお誘い』
「うわ、いいね。でも、来週はボランティアしたいんだ。その次の週だといけるんだけどな」
『塾にいけないキッズに勉強教えるやつ、地味に続けてたんだな。もしかしてアレも諦めてないみたいな?』
矢凪さんがクスクスと笑った。
「アレ呼ばわりひどいな。全然諦めてないよ」
『格差社会の犠牲になってるキッズの施設つくるなら、それ相応の資金とかパトロンつかまえないと無理だかんな。ま、俺はおまえがガチなの知ってるから、応援してるけどさ』
「だから、宝くじを毎年かかさず買ってるんだよ」
矢凪さんが冗談めかすと、相手が笑った。
『俺が一等当てたら、一割ほど寄付してやる」
矢凪さんも声をあげて笑った。
「ケチだなあ」
「そうだぞ、知らなかったか?……っつーのはおいといて、そっか。そんじゃ、キャンプは再来週にするかな』
「ほんと? それならいきたいな」
『俺の彼女の友達、覚えてる? この前一緒に飯食った子』
「えっ」
矢凪さんは息をのみ、目を見張る。
「……児童支援員してる、
『そうそう、モガちゃん。おまえと仲良くなりたいんだって』
矢凪さんが固まった。
『来週と再来週の土日はシフトで休めるみたいだから、おまえがよければ四人でキャンプしたら楽しそうだなと思ってさ』
そう耳にしたとたん、矢凪さんの表情がふわりと優しくなった。
「うん、いく。誘ってくれてありがとう」
『うす。そんじゃ、ほどほどにがんばれよ』
通話を終えたとたん、矢凪さんは顔を赤くして口をおさえた。
「……うわ。茂上さんとキャンプとか、嬉しすぎてヤバい」
どんなに鈍感でもさすがにわかる。矢凪さんは恋をしていたのだった。そしてその恋は、ほどなくきっと成就する。
私と矢凪さんの世界には、コンビニのカウンターみたいな隔たりがある。私はそちらにはいけないし、矢凪さんがこちらにくることもない。
そういう隔たりが、たしかにある。
私はあなたの影で空気で存在していないなにかだから、あなたの視界に入ることもないし、あなたの人生に関わることもない。そうわかっていたし、覚悟もしていたからたいして傷ついていない。
嬉しそうなあなたを目にできて嬉しいし、よかったと素直に思う。
けれど――やっぱり胸は痛い。ひりひりして、すごく痛い。
いまになって、気づいてしまった。
自分が思っていたよりも、たぶんすごく好きだったんだ。
椅子から立ちあがった矢凪さんが、空き缶を手にした。こちらに背を向け、窓枠に手をかける。毛先がぴょんと飛びはねた後頭部がかわいい。
せめて、あなたと同じ世界にいられたらよかったな。そうしたら、バレンタインにチョコを贈るくらいのことはできただろうし、玉砕覚悟で告白もできたかもしれない。でも、いまの私にそれはできない。それをしてしまったら、気持ち悪がられるだけだからだ。
だから、このままさようなら。
私はあなたが、好きでした。
私の吐息が、夜風にとけていく。
泣かないように唇をかみしめた瞬間、暗転していた視界に光が灯る。直後、いま目にしているものとは別の光景が、いきなり私の脳裏に浮かんだ。
――威井田が、動いた。
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