第21話 秘密のブースト

 ――捕縛ほばくします。

 そう言ったかいさんは、美月みつきさんからレシートを受け取ると、それを半分にしてちぎった。半分を美月さんに返し、残りを衿に差し入れる。

威井田いいだの本体が身を隠しているアパートのエリア、あたりをつけてたとおりだったよ。途中で憑依をとかれたから特定にはいたっていないけれど、何棟かに絞ってある。スマホに送った」

「おっけーだ」

「こっちも深追いはしていないから、向こうは逃げきったと思ってる。いったん身を潜めて次の機会を待つはずだ。その間に視界を盗んで、アパートと部屋を割り出してほしい」

「うっす」

 そう言った美月さんは、衿元から黒いハンカチを出す。左の手のひらにレシートをのせ、口をつかってハンカチをぎゅっと結んだ。

「決行は午前零時。東京組も待機に入った。あと二時間ほどあるから、ポイントの絞り先で待機しててくれる?」

「了解だ。そんじゃ、あとでな」

 美月さんが姿を消すと、櫂さんは真剣な面持ちで私を見た。

「きみに話さなくちゃいけないことがある。いったん自宅に戻ろう」

「えっ……と、はい」

 話さなくちゃいけないことってなんだろう。そう思いながら、先を急ぐ櫂さんのうしろにぴたりとくっつき、かつてない速さで通界つうかいをくぐった。



「道場で待ってて」

「はい」

 指示されたとおり、道場に向かう。ほの青い月の光だけを頼りに、板床に正座した。

 どうにも不安がせりあがる。なにを言われるのだろうかとあれこれ想像しはじめた矢先、風呂敷包みを手にした櫂さんがあらわれた。

 私の目の前に座り、包みを置く。そうしてまっすぐ、私を視界に入れた。

「まずはお礼を言わせてください。今夜はありがとう。きみの機転に助けられた」

「い、いいえ……」

 恐縮する私に、櫂さんは表情を険しくさせた。

「おそらく、きみはあと少しでここの天井を走れる」

「……えっ?」

 それは、御霊みたま砂己さこさんに戻せることを意味した。

「でも、いまはまだできない。分け御霊を取り出すには、関節ひとつ分が足りないはずだ」

 私は驚き、目を見張った。

「はい……そうです」

 櫂さんは思慮深げにうなずき、言葉を続ける。

「はじめ、僕はきみに、砂己の代わりはしなくていいと言ったんだけど、覚えてる?」

「えっ……と、覚えてます。トレーニングだけでいいって言われました」

「あのときは本体のみの捕縛を予定していたから、三人でもじゅうぶんな算段をつけていたんだけれど、まさかの憑依先もくわわってしまった。ターゲットの護衛もあるし、そうなるとあきらかに頭数が足りない」

 話の方向が見えてきた。こっそり覚悟を決めながら、櫂さんの言葉を待つ。

「助っ人は頼めない。でも、今夜、砂己の代わりがどうしても必要なんだ」

 風呂敷をほどきながら、言葉を続ける。

「〝あがり〟を決めるなら、威井田の焦りがピークに達している今夜が最適だ」

 そう言うと、風呂敷の中にあるものを私に見せた。

 それはおそらく、砂己さんのもの。夜明け前の闇のような、紺がかった鼠色の着物と袴、ストールが、皺ひとつない状態で折りたたまれてある。その上に、ハンカチとしめ縄のような腕輪も添えられていた。

「ターゲットの護衛を、きみに頼みたい」

「――えっ!」

「きみのおかげで、僕たちは威井田の視界を手に入れた。威井田がどこにいようとも、その視界から居場所を特定できる。羽伊が憑依先のカラスを詰め、僕と美月が本体を詰める段取りだ。でも、そうなるとターゲットの護衛が空席になってしまう。だから、それをきみに頼みたい」

 息をのんだ私は、身動きを忘れてしまう。


 ――私が、矢凪やなぎさんの護衛をする!?


「威井田がターゲットに近づけば、僕たちも自然に集まることになる。きみに危険があったとしても、僕たちが必ず守る。きみには今夜だけ、僕たちが威井田を捕縛するまでの間、羽伊のようにターゲットのそばにいてほしいんだ」

 そう言うと、やっと少しだけ表情をやわらげた。

「トレーニングだけでいいだなんて、嘘ついてごめんね」

「い、いえ……」

 矢凪さんを、間近で守れる。それは嬉しい。すごく嬉しいけれど、迷う。

「も、もしも断ったら……どうなりますか」

 櫂さんがニヤリとする。

「責任感のあるきみは、絶対に断ったりしない」

 うっ、と言葉に詰まってしまった。

「……そういう言い方、ずるいです。断れないじゃないですか」

「僕はずるいし、腹の中も常に真っ黒だよ。知らなかった?」

「……いえ、なんとなく気づいてました」

 櫂さんはクスッと笑みをもらす。

「でも、私は羽伊さんみたいに姿を消せないんですけど……?」

「大丈夫。この着物がきみを隠してくれるし、裏技もあるからあとで伝授するよ」

 問題がひとつ消えてしまった。息をついて落ち着いて考え、私がもっとも懸念していることを声にする。

「ち……ちなみにですけど、どのくらいの近さで護衛するんですか」

「ターゲットが部屋にいる間は、マンションのベランダかドアの外にいてほしい。異変はかすかな気配でわかるから、その距離感で大丈夫」

 部屋の中まで入るわけじゃないらしい。それでも、常識的に考えたら問題ありだけれど、矢凪さんにとっては期間限定で必要なことだ。

 たった一晩だけのこと。それに、直接的ではないにせよ、矢凪さんを守りきれたら、千海せんかいにも一矢報いることができるかもしれない。

 いや――かもしれないじゃなくて、できるんだ。

「わかりました」

 私は密かにこぶしを握った。

「ぜひ、やらせてください」

 櫂さんは私を見つめたまま、小さくうなずいた。

「ありがとう。じゃあ、これに着替えたらまたここにきて」

 私はとっさに仕事着を見下ろす。

「す、すみません……。私、和装の知識が皆無です」

 櫂さんが微笑む。

「砂己の分け御霊が知ってるから、まかせてごらん」

 

 * * *


 はたして、順調に着られた。

 無心で足袋と肌襦袢を身につけ、長襦袢を紐で結び、着物を着る。衿元をととのえて帯を巻き、袴を履く。そして、ストールを巻き顔を隠した。

 鏡に映る凛とした自分の姿に、びっくりする。同時に、少し笑ってしまった。まさかこんなことをする日がくるなんて、夢にも思ったことがなかったから。

「ほんと私の人生って、いらないライフイベント多すぎ」

 いままで、誰かのためになにかをしたことはない。ずっと自分のことだけで精一杯で、そんな余裕がなかったからだ。

 でも、今夜。

 たとえなにもかも忘れてしまうのだとしても、私は誰かの役に立つことができる。


 ――陰ながら好きだった人のことを、守ることができるんだ。


 背筋をのばして、鏡を見つめる。乱れた髪をきっちりとしばり直し、立ちあがる。そうして腕輪とハンカチを持とうとした矢先、ふともう一度鏡を見つめた。

「いらないかな、眼鏡」

 度の入っていない眼鏡をはずし、部屋をでた。それから砂己さんの部屋を訪れ、仕事着を借りたことを伝えてから、ふたたび道場に向かった。

 正座をして待っていた櫂さんが、私を見るなり微笑んだ。

「眼鏡、やっとはずしたね」

「邪魔な気がしたので、はずしてみました」

「それが本当のきみというわけだ。ここに座って」

 膝が触れるほど近い板床を、つんと手でしめす。言われるがままそこに座ると、想像以上に櫂さんが近い。色素の薄いふわりとした前髪から、吸い込まれそうな淡いグレーの瞳がのぞく。

 見れは見るほど、きれいな顔。まるで、どこまでも深い闇夜に浮かぶ、静かで儚い月のよう。

 櫂さんは、自分の持っているレシートをさらに半分にした。

「ターゲットのそばに行ったら、これを美月みたいに左手に持って、ハンカチで結んで」

「いまはダメですか」

「威井田の視界に邪魔をされたら、途中で集中できなくなるかもしれないでしょ? きみの役割はあくまでも護衛だから、いまはまだいい」

「わかりました」

 ハンカチで包み、衿元に差し入れた。

「腕輪は左手首」

 私の手首に、腕輪をはめてくれる。でも。

「……これ、使い方がわからないんですが」

 櫂さんは「大丈夫」とささやき、上目遣いで私を見た。

「これから、僕の独断で裏技を伝授する。砂己の分け御霊にブーストをかけるから、そのときがきたら使えるようになるよ。今夜のきみには必要ないかもしれないけれど、状況が読めないから念には念を入れておきたい」

 ……ん?

「ブースト?」

 困惑して眉根を寄せると、櫂さんは小さくうなずいた。

「本当はよろしくない使い方なんだけれど、背に腹は代えられないからね」

 着物の衿元に右手を差し入れると、ぐっと帯の奥に押し込む。かすかに表情を歪めた櫂さんは、やがて人差し指と中指に挟んだものを取り出した。

 それは小指の爪ほどの大きさの、青く燃える球体だった。

「えっ……そ、それは」

「僕の分け御霊のごくごく一部。これが、今夜のきみを助ける。口をあけて」

「え」

「これ、食べて」

「えっ!」

 飴玉を食べさせようとするかのように、櫂さんの顔と分け御霊の一部が私の口に迫ってきた……って、いやいやちょっと待ってください!

「こ、これ、食べてもいいんですかっ」

「うん、砂己の分け御霊をもってるきみなら、食べていい。僕のこれが、今夜のきみを完全なカゲモノにしてくれる。朝までの期間限定だけれどね」

「で……でも、櫂さんは大丈夫なんですか」

 櫂さんは私に顔を近づけ、笑った。

「僕はこのくらい欠けてもどうってことない。さ、どうぞ。早くしないとキスするよ」

「はい!?」

「そういう距離感でしょ、これ。それに、そうしたってきみは忘れるもの。僕にとっては好都合だけど、そんなセクハラしたくないから早くしてくれる?」

 本気じゃないにしても、急いでいることに変わりはないらしい。とにかく、躊躇している暇なんかないってことだ。でも?

「か、完全なカゲモノになれるのなら、分け御霊も取り出せるんじゃないですか?」

「それができるなら、とっくにしてるよ」

 ですよね。訊いてみただけです。

「わ、わかりました」

「ちなみにだけど、このことみんなには内緒にしてくれる? 集中力がそがれたら、威井田の捕縛どころじゃなくなるかもだから」

 それほどまでに〝よろしくないこと〟らしい。だけど、砂己さんの代役を果たさなくてはいけない今夜の私には、必要なことなのだ。

 櫂さんの分け御霊のかけらを、無駄にするわけにはいかない!

「た、食べます!」

 ええいときつく目を閉じ、口を開ける。

「きみは本当に素直でよい子です。はい、どうぞ」

 やたらいい声で耳打ちされたとたん、熱したマシュマロのような感触が舌にのる。いまにもとろけそうな味のないそれを、いきおいをつけてごくんと飲む。

 ひと息ついた直後、全身の血液が泡立って、髪が逆立つような錯覚を覚えた。すべての五感がぎりぎりまで研ぎ澄まされ、無風の気配までもが爪先にまでいきわたる。

 驚きながら目を開けたとたん、櫂さんの視線が目前にあった。

「どう? 平気でしょ」

「へ、平気……ですけれども」

 視野も広い。全然違う。振り返ってもいないのに、自分のうしろまで見えるこの感覚はなんなんだろう。

「……こ、これが、みなさんの視野なんですか」

「というよりも、僕の視野かな。見なくてもいいものまで見える気分はどう?」

 どうかと訊かれても、答えようがない。

「紊者退治には便利そうです……けど」

「けど?」

 世の中には、知らないほうが幸せなこともある。見えないほうが、幸せなこともあるのだ。

「……大変そうです」

 私の言葉に、櫂さんは一瞬だけ目を見張る。それから、なぜか参ったとばかりに微笑んだ。

「やっぱりきみは、お利口さんだ」

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