第20話 バレてます

 ビニール手袋をしたまま、威井田いいだの触れたレシートだけを抜いて、デニムのポケットに入れる。それから手袋とユニフォームを脱ぎ、オーナーに挨拶をしてコンビニをあとにした。

 レシートをなくさないよう、自分の財布に入れようとして素手で触れたとき、それは起きた。

 古ぼけた木造の天井が、突如頭の中に浮かんだのだ。まるで、どこかの部屋で横たわっているかのような光景だと思った直後、いっきに暗転した。

 気のせいかと思ったとたん、今度は地下鉄駅の周辺らしき景色に変わる。電信柱の上から眺めているような映像で、目を閉じるともっとはっきり浮かんできた。

 駅名がわかる。バスの私は使わないけれど、このあたりに暮らす人たちの最寄り駅だ。やがて、焼き鳥屋や居酒屋、薬局の並びにある定食屋から、会社員らしき男性が出てきた。その姿が浮かんだ瞬間、思わず目を開けてしまった。

「……あ」

 矢凪やなぎさんだった。

 え、なに。この感じとかこの映像、いったいなに――と、手にしているレシートを見つめる。

 そうか。そうだった。私も御霊みたまをもっていたんだった。だから、いま触れているレシートから、砂己さんのそれが視界を盗んでるんだ。


 ――威井田の視界を、盗んでるんだ!


 けれど、だとしたらどうしてこんな、上空からのものになるんだろう。まるで鳥の視点みたいだ。

「……鳥?」

 夜空を見上げ、言葉を失う。リュックを背負いなおした私は、すぐにスマホで美月さんを呼び出し、帰路を急いだ。

「美月さん、見つけました。レシートです!」

『やったな! マジのマジですげえぞ!!』

「ありがとうございます! ちなみに、紊者びんじゃってなにかに変身とかしますか? 動物とか、鳥とか」

『変身はできねえけど、飼いならした動物なんかに魂ごと憑依するやつはいる。けど、かなりの手練れじゃなきゃ無理だ』

「じゃあ、その憑依された動物を捕縛ほばくしたら、本体はどうなりますか?」

『動物を捕縛する寸前、憑依をといて本体に逃げられたら自由に逃げられちまう。だから両方の捕縛をする必要がある。どした?』

 そうか。憑依をやめられたら、逃げられてしまうんだ。でも?

「動物に憑依している間は、その動物が紊者本体ってみなされますか?」

 美月さんは言った。

『まあ、魂ごとのっけて行動してるわけだから、そうなるな』

「コピーなんかの術も、その動物がおこなってることになるんですか?」

『ああ、そうだ。けど、そこまでの手練れはなかなかいない……』

 そう言って息をのみ、美月さんは言葉を続けた。

『……そうか、威井田か。つむぎっち、レシート触れんだもんな。見えてんだな?』

 はい、と私は答える。頭の中にいまも浮かんでいる場所と光景を伝え、カラスに憑依しているかもしれないと声にした直後、威井田の視界が大きく動いた。


 定食屋を出た矢凪さんを、虎視眈々と見下ろし――急降下していく。


 羽伊ういさんがいる。きっとかいさんだって、どこからか威井田があらわれるのを待ち受けている。けれど、威井田がカラスに憑依していると知っていて、矢凪さんにもっとも近いところにいるのは私だ。


 ――いま、私だけなんだ!


「矢凪さんが危ないです。いきます!」

『おっ――!?』

 通話をきり、脳裏に浮かぶ映像を追って全速力で走った。

 下腹の、丹田の奥の熱が全身にいきわたり、やがて影と一体化していく。

 人影のない歩道を風のように駆け抜けていると、自分の身体の輪郭が闇にとけていくような錯覚を覚えた。

 時間も時空もなにもかもを超えて、闇にとけて影になる。

 きっといまの私の姿は、普段以上に誰の目にも映っていない。

 間をおかず、スマホを触りながらうつむいて歩く矢凪さんが前方に見えてくる。同時に、上空から急降下してくる黒い翼が目に飛び込んだ。

 大きい。なんて大きなカラス!

 近づいてくるからそう見えるのではなくて、たぶん目くらましの術かなにかを使っているんだ。どちらにしても、普通のカラスの何倍もの大きさがある。

 だからって、怖気づいたりしたい。矢凪さんを守らないと!

 無心だった。いきおいをつけて地面を踏みしめ、背負っているリュックの肩紐を右手に握った。それを投げつけるつもりで、歩道脇の街路樹の幹をいっきに駆けのぼる。と、真下を通り過ぎようとする矢凪さんめがけ、きらりと光る武器が翼から放たれた。

 ただならぬ気配を察したらしく、矢凪さんが振り返る。

「――えっ……わ!」

 顔の前で両手を交差しつつ、尻もちをつく。とっさに輪郭を見せた羽伊さんが、彼をかばった。街路樹から飛び退った私は、即座にリュックを胸に抱き、

 ――ドドドッ!

 武器を受け止めた。

「――倉本さん!?」

「平気です!」

 公園で目にしたときのような数枚の手裏剣が、私のリュックに突き刺さる。その予想外の圧力が、地面に着地した私をずずずとうしろに追いやった。そんな威力があるにもかかわらず、穴だけをリュックに残し、やがていつかのように雪のようにとけて消えた。

 この手裏剣が消えなければ、レシートを探す必要もなかったのに。まったく抜け目がない。

 ふたたび旋回したカラスが、もう一度戻ってくる。身構えた刹那、どこからともなくこちらに向かってくる影があった。

 あっ、と思う間もなく、裾と袖をひるがえしたような突風が、私の横を吹きすさぶ。

「紬さん、グッジョブ」

 そう聞こえた瞬間、櫂さんは袖を翼にして飛んだ。

 ――えっ。

 大きく旋回したカラスが、慌てたようにきびすを返す。櫂さんはそれを追いかけ、一瞬のうちに夜空に消えた。

 あんなふうに飛ぶ姿を、はじめて見た。それこそ本当に鳥みたい。

「あ、あの……?」

 矢凪さんの声で、我に返る。

「な、なな、なにがあったのかよくわかりませんが、もも、もしかして僕は、助けてもらった……のでしょうか……?」

 腰を抜かしている矢凪さんは、私と羽伊さんを交互に見ながら戸惑い、声を震わせた。きっと矢凪さんは、私がいつも立ち寄るコンビニの店員だなんて、想像もしていないだろう。

 でも、いい。ほんの一瞬でも、影ながらあなたを守ることができて、本当によかった。

「立てますか」

 羽伊さんが、矢凪さんに手を差し伸べた。矢凪さんはおそるおそるその手をつかみ、立ちあがる。

「い、いったいなにが? あ、あなたたちは……?」

 ふたたび彼が私を見つめた。そのとき、羽伊さんは彼の額に指をつき、静止させた。そうして深く嘆息する。

「あなたがどうしてここにきたのか、事情は落ち着いてから聞きます。いまはひとまずこの場をおさめなくては」

「はい」

「これから彼の記憶を消しますが、それにはあなたを見たことも含まれます。いいですか」

「え?」

 どうしてわざわざそんなことを訊くのだろう。困惑する私に、羽伊さんが言う。

「あなたはいずれ、普通の世界に戻る身です。今夜の縁が育つ可能性を、俺はいまここであなたから奪うことになります。だから、そのことを伝える義務があります」


 ――今夜の縁が育つ可能性。


 そう聞いて、まさかと思う。

 私が彼らと関わる前から、羽伊さんは矢凪さんを陰ながら守っていた。きっと羽伊さんは、その間さまざまなことに気を配って観察していたはずだ。

 矢凪さんを目で追うささやかな存在のことも、すでに気づいていて不思議はない。

 どうしよう。もしもそうだとしたら、恥ずかしすぎる。恥ずかしすぎて泣きそうだ。

「……もしかして、バレてました?」

「なにがですか」

 とっさに目をそらし、口元をさらに隠すかのようにストールをつまみあげる。いつも無表情だから判断が難しいけれど、なんとかとぼけようとしているように思える。

 女子のこういう予感は、高確率であたるからやっかいだ。

 私は思わず、笑ってしまった。

「なんですか」

 羽伊さんはけげんそうに眉をひそめ、私を横目で見る。

「わざわざ訊いてくれて、ありがとうございます」

 私のことなんて気にせずに、有無を言わさずそうしたっていいのに。どうしてこんなにいい人たちなんだろう。もっと意地悪で横柄で心底いやな人たちならよかったのに。

 そうしたら、こんな思いをする必要もなかったのにな。

「いいです、大丈夫です。消してください」

「わかりました」

 羽伊さんはうなずき、私を見つめた。

「俺たちは、あなたになにも残せない。だから、せめて、目に見えない縁のようなものを残せたらいいのですが」

 ――えっ。

 そう言った羽伊さんは、前のように矢凪さんの記憶を消し、袖を交差させながら姿を消す。私はその場から離れ、小さくなっていく矢凪さんの背中をただ見つめた。

 その背中を守っている、羽伊さんを見つめた。

 ……赤の他人の私に、なにも残さなくたっていいのに。

 そんな、まるで神さまみたいなありがたい言葉をかけられたら、いままでの人生で味わったことのない感情がわきあがってきて、目に映る景色がどんどんぼやけていってしまう。

「――っと、間に合った!……のか?」

 背後で美月さんの声がした。きっと急いで通界をくぐってきたんだ。

「なんだ、平穏な感じじゃん。んで、矢凪さんはどうし――」

 うつむく私をのぞき込み、

「――どうした、紬っち!?」

 そう言われ、慌てて涙をぬぐう。でも、次から次へとあふれてしまう。

「……なんで、みなさんはいやな人たちじゃないんですか」

「あ?」

「なんでそんな、私なんかによくしてくれるんですか」

 涙をぬぐって美月さんを見る。袴姿の美月さんは、ストールから顔をだしてニッと笑った。

「紬っちがなんでここで泣いてんのか知んねーけど、その質問には答えられる」

 目を丸くした私に、美月さんは言葉を続けた。

「櫂兄から少し聞いたかもだけど、俺たちはすごく閉鎖的で、よほどのことがないかぎり外の人間をいれたりしない。けど万が一、もしもガチで関わるようなことがあったら、〝いい思い出にしよう〟って決めてたんだ」

「いい……思い出?」

 美月さんがうなずく。

「人生は儚い。とくに、俺たちの生き方は幻みたいだ。だからこそ、関わった人には親切でありたいし、いい思い出にしたい。たとえ、紬っちの記憶に俺たちが残らなくても、俺たちは覚えてるからさ」

 はっとし、息をのんだ私に、美月さんは晴れやかな笑みを見せた。

「覚えてるなら、いい思い出のほうがいいに決まってる。だろ?」

 単純明快だった。美月さんのこういうところ、心底見習いたい。私は笑った。たしかに、そのとおりだ。

「……ですね」

 だとしたら、できるだけ素敵な私を覚えていてほしい。こんなところで、ぐずぐずと泣いている私じゃダメだ。

 深呼吸をして気持ちを切り替えた私は、ここまでにあったいきさつを美月さんに伝え、ポケットのレシートを差し出した。

「これです。いまは……暗転してます」

「おお! 櫂兄には伝えてある。羽伊にも伝えないとな」

 あえて見ないようにするためか袖で受け取り、四つ折りにして衿に忍ばせた。

「事務所のボードも見た。あれ、どうもな」

「あ……と、はい。東京の人たち、ブローカーを捕まえるみたいですね」

「ああ。今夜か明日にでも拘束する算段をつけてる。それにあわせて、こっちも捕縛する腹づもりで動いてたから、レシートはマジのマジで後押しされるわ。しつこいけどどうもな!」

 褒められると、素直に嬉しい。私は照れつつ小さくうなずく。腕を組んだ美月さんは、ふと考え込むように視線を落とした。

「……にしても、威井田が直接攻撃を仕掛けてきたってことは、かなり焦ってる証拠だぞ」

「焦ってる?」

 私が訊ねた直後、ふわりとした風を背後に感じた。振り返ると、両袖に手を差し入れた櫂さんが立っていた。

「うん。すごくいい感じに焦ってる」

 さも楽しげに口角をあげてすぐ、いっさいの笑みを消す。櫂さんはときどき、こういう顔つきをする。

 月明かりみたいにきれいで、ぞっとするほど冷たい無慈悲な表情。

「そろそろあがろう」

 櫂さんは眼差しを鋭くさせ、静かに告げた。

「今夜、挟みうちにして詰める。――捕縛します」

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