第18話 一族の掟

 しんとした、静かな夜。

 美月みつきさんも羽伊ういさんもまだ戻らない自宅の縁側で、和装姿の櫂さんはフルーツ全盛りのタルトを切った。

「閉店ぎりぎりだったけど開いててよかった。このタルト、絶品なんだよね」

 そう言うとお皿にのせ、うつむいてちんまりと正座している私に寄せた。

「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます。すみません……」

 なんとか声にする。麦茶でいいかと訊かれたので、うなずく。

 号泣した恥ずかしさといたたまれなさで、顔をあげることができない。でも、せっかくのタルトと麦茶を無駄にしたくないので、のろのろとフォークを口に運んだ。

「おいしい?」

「はい、すごくおいしいです……」

 一口食べたとたんに空腹の感覚が戻り、いっきに食べていっきに飲んだ。まだあるよと櫂さんが笑う。美月さんと羽伊さんの分を残したいので、遠慮した。


 タルトのお店でタルトを買い、通界つうかいをくぐってここに戻るまでの間、櫂さんは私になにも訊かなかった。ただ、私を追いかけたいきさつは話してくれた。

 美月さんから、私に書類整理の雑用を頼んだと教えてもらい、休憩時間に戻った櫂さんは事務室に向かった。整理整頓された室内で仮眠するつもりが、乱雑にされた書類とファイルを目にし、抜かれている書類に気づいたと言う。

 すぐに私を探したもののどこにもおらず、もしやと追った先に私がいたのだ。

 いましも、りんさんに捕縛ほばくされそうな状態で。

 貴重な休み時間の邪魔をしたことがやるせなく、私はぐずぐずと泣きながら何度も謝り、櫂さんのうしろを歩き続けた。

 東京にはいい思い出がないから好きじゃないけれど、いいところもある。和装の超絶イケメンと、上下ジャージの眼鏡女子が一緒に歩いていても、気にする人がいないことだ。

 そうして、いま。私は櫂さんと並んで縁側に座り、闇夜をあおぎ見ている。


 大きな満月が、どことなくさびしげな光を放っていた。自分の鼓動すら聞こえそうなほど静かで、耳をすませばかすかな波音が聞こえてくる。

 月を見上げる櫂さんが、ふいに口を開いた。

「僕たちにはさ、生まれたときから自由がないんだよね」

「……えっ?」

 突然の言葉にびっくりし、目を丸くする。

「月と闇を司る神が、僕たち一族に御霊を分け与え、この世に存在することを命じる。神の御霊を分け与えられた僕たちは、その使命をまっとうする以外の人生を選べない」

 私を横目で一瞥した櫂さんは、小さく微笑んでまた月を見た。

「物心のついたときから、御霊みたまを磨く訓練がはじまる。学校では親族以外の誰とも仲良くならないことが課せられる。だから、ほとんど一人で過ごすはめになるんだ。素敵でしょ」

 素敵でしょと、素敵じゃなさそうな苦笑いで、私を視界に入れる。

「そんな……全然素敵じゃないです。誰とも仲良くならないことが課せられるって、どういうことですか」

 前を向いた櫂さんは、ぼんやりとした様子で麦茶を飲み、視線を落とした。

「僕たちの存在は、闇で影で亡霊。この世にあって、あの世にも片足を突っ込んでる。誰にも知られてはならない御霊と使命と運命のことを、もしも誰かに話したら、それを聞いた相手は死ぬと教えられた」

 ――え。

「そ、そんな……?」

 櫂さんは、乾いたような笑みを浮かべた。

「それが、いくつもある掟のひとつ。だから、僕たちは真実の正体を誰にも知られないようにする。もしも知られたら、相手の記憶を消す。そうして一族だけで秘密を守りながらひっそりと生きて、一人前と認められたらこんなふうに、ひたすら使命を果たしていく」

「それは、避けられないんですか? 逃げる……とか」

「もちろん、分け御霊を取り出せば、課せられた運命からは逃れられる。けれど、それは僕たちにとって死を意味する。永遠に眠り続けながら老いて、死を待つはめになるだけだから」

 一族の中でも、分け御霊を持たずに生まれる子どももいる。そういう子は一族から離されて施設にあずけられ、里親のもとで普通の人生を歩むことになるのだそうだ。

「一族の常識において、そういう子は落ちこぼれの烙印を押される。でも、僕たちにとっては憧れだ。血のつながりはなくともごくごく普通の両親のもとで、自由な人生を歩めるからね」

 言葉をきった櫂さんは、麦茶を飲み干して息をついた。

「この年になると、もうどうだっていいことだ。自分のしていることに、それなりの誇りを感じることもあるしね。でも、ときどき、無邪気な子ども時代を過ごしてみたかったと思うこともある」

 そう言うと、しばらく押し黙る。やがて、いっさいの感情を消し去ったかのような表情で、私を見た。

「きみの秘密を知ってしまったので、僕も秘密を話した。これでおあいこかな」

 ――あ。

 私ははっとした。月明かりに照らされた櫂さんは、どこまでも幻想的で残酷で、まったく知らない人のように一瞬思えた。

「ごくたまに、驚くような偶然が人生には起こる。きみの過去は知らないと言ったことは、本当だよ。でも、夕方に依頼元から連絡がきて、ブローカーに娘がいると教えられた」

 なにも言えず、身動きひとつとれずにいる私に、櫂さんは言った。

「ブローカーが娘と接触する可能性は低いと判断しているけれど、念のための情報だからと知らされたんだ。僕が同じ街にいるからという理由でね」

 微動だにしない私から視線をそらさず、静かな声音で告げる。

「きみがしようとしたことを、責めるつもりはないよ。まともな人間なら、誰だってそうしたいと思うだろうから。だけど、クソな人間のせいで、自分もクソな人間に成り下がる必要はない。それこそ、クソの思惑どおりだ」

 突然のクソ乱発に、びっくりした。

「クソ……」

「そう。思慮深いきみに、あんなことをさせたほどの相手だもの。ぶっちゃけクソでしょ?」

 あっさりした返答にびっくりし、あ然とする。そんな私を見て、櫂さんは微笑む。

「慰めにならないかもしれないけれど、たとえ血がつながっていたとしても、きみとブローカーは独立した個人と個人だ。きっちり境界線を引いて、まったく別の人生を歩む権利がきみにはある。親だからって責任を感じたり、自分に罰を与えるような生き方を選ぶ必要なんかないんだよ」


 ――自分に罰を与えるような生き方を、選ぶ必要なんかない。


 ずっと、聞きたかった言葉だ。また泣きそうになって、唇をかむ。

 そんなふうに言えるのは、似たような経験をしているからだ。いや、きっと櫂さんは私以上に、いろんなことをのみこんで生きてきたのかもしれない。

 大人なんだ。やっとまともな、大人に出会えた。

「きみの希望は、燐たちが必ず叶える。だから――」

 まばたきもせず置物のように正座している私に向かって、櫂さんは言葉を重ねた。

「まったく別の人生を歩んで、楽しんでいいんだ。紬さん」

 冷えきった胸の奥に、小さな明かりが灯ったような感覚を覚える。

「僕の言ってること、わかる?」

 自分の気持ちが、すっかり軽くなったわけじゃない。けれど、それでも、知らずのうちに背負っていた重荷を、少しずつおろしていきたいと素直に思えた。

 少しずつ、一歩一歩。

「……わかります」

 そう言葉にしたとたん、やっと少し笑えた。すると、櫂さんもつられたように口元をほころばせた。

「やっぱり、きみはお利口さんだ」

 私の秘密は、美月さんも羽伊さんも知らないと櫂さんは言う。

「僕が二人に伝えるからと、依頼元に口止めした。でも、二人には言ってない。それでいいかな?」

 はい、と私はうなずいた。

「……ありがとうございます」

 そう言ったとき、はたと気づく。

 もしかして櫂さんは、私を励ますために「おあいこ」だなんてうそぶいて、誰にも知らせてはいけない身の上を打ち明けてくれたのかもしれない。

 けれど、だとしたら?

 私は櫂さんをまっすぐ見つめた。

「もしかして、私……みなさんの記憶、消されるんですか」

 櫂さんは驚くこともなく「ちょっと違う」とすんなり答える。

「違う?」

「うん。消されるんじゃなくて、消える」

「――え?」

「きみが砂己さこに分け御霊を戻したら、その間に蓄積された僕らの記憶も自然に消える。だから、大丈夫」

 背筋がひやりとした。

「な、なにが……大丈夫なんですか」

 櫂さんは、どこかあきらめたような儚げな笑みで、さらりと告げた。

「きみは、クソなブローカーのこともちゃんと忘れる。明け方の夢みたいにね」



 布団に潜り、目を閉じる。

 砂己さんの分け御霊をもっているとはいえ、どうしてここに暮らす人たちが、私をこんなにも深く受け入れてくれ、なにもかもを語り、親切にしてくれたのかわかってしまった。

 私が、忘れるから。

 ちりちりとしたかすかな痛みを胸に感じながら、私は身体を丸める。そうして、下腹に触れてみた。前よりも深く指が入る。

 終わりが近い。

 あと少しで、いつもの暮らしに戻れる。


 孤独で、単調で、笑うことも泣くことも驚くこともない、平穏無事な日常に。

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