第17話 東京タワーと甘いもの

 スニーカーを履き、通界つうかいをくぐってドアを閉める。

 振り返ると、閉店して空き店舗と化した雑貨店の裏口だった。

 真新しいオフィスビルや高層マンションと、風情ある一軒家や古民家風の建物が混在している場所にホテルはあった。高層階の部屋であれば、東京タワーと芝公園、湾岸までの景色が一望できるはずだ。

「あいつは絶対、最上階にいる」

 顔を見てどうするかなんて、いまの私には決められない。でも、自分のすべきことはわかっていた。

 ポケットに入れたナイフを握りなおし、場違いなジャージ姿であることも忘れてホテルに向かっていく――直後。

 突風が吹き、ひとつに縛った私の髪がなびく。と、いきなり私の目の前に、煙に紛れたような輪郭の人影が立ちはだかった。はっとして足を止めた瞬間、薄曇りの霧みたいな合間から、相手の顔だけがぬっと飛びだした。

「――あんた、何者?」

 年齢は、かいさんと同じくらい。黒髪を頭頂でまとめあげ、鼻から下をストールで隠している女性だった。

「あたしが見えても驚かないってことは、同類か」

 私を凝視し、ややつりあがり気味の双眸を細める。闇色の着物も、左手首のしめ縄のような腕輪にも見覚えがあり、すぐに察した。

 ブローカーの千海せんかいを監視している、月乃成つきのなり家の分家の人だ。

「千海に接触する紊者びんじゃ……ってわけでもなさそうだけど」

 そう言うと顔を近づけ、眼光を鋭くして私を見すえる。私が返答するより先に、彼女は言った。

「あんた、なんで沙己さこ御霊みたまをもってんの?」

 えっ?

「ど、どうして……っ」

「あたしたちにはわかるんだよ。どうやって手に入れた?」

 私が目を丸くした瞬間、彼女の形相が鬼のようになった。

「まさか――沙己を捕らえて取り出させ、無理やり手に入れたのか」

 違いますと訴える私の言葉に聞く耳をもたず、彼女は景色にとけこむ淡い輪郭を、足元から徐々にはっきりさせていく。

「同類でも、敵か」

 そう言うと、右手二本の指を私の下腹に押しあてた。直後、身体が硬直したように動かなくなる。これまでのいきさつを伝えようにも、乾いた嗚咽がのどの奥でくすぶるだけで声にならない。

「敵なら容赦しない」

 身動きできず、息がつまる。彼女が指を離しても、私の身体はまだ動かない。

 怖さと焦りで、目に涙がたまっていく。

「ここであんたを捕縛してやる。さっさとそいつを取り出して返しな!」

 ――なに!?

 しめ縄の腕輪に指をかけた彼女は、呪文のように小声で告げた。

月読命つくよみのみこと御霊みたまにかけて、悪しき者をこれより捕縛いたす――」

 腕輪を大きく長くしはじめ、私の身体をくぐらせようとした、矢先。

 私のうしろから、闇色の片袖がのびる。その右手が、目前に迫ったしめ縄を握りしめて捕らえた。

「――ウチの大事なゲスト、捕縛しないでもらえる?」

 聞き覚えのある声の主が、私の肩越しから横顔をのぞかせる。

 櫂さんだった。

「……は? ゲスト?」

 彼女が大きく目を見開く。櫂さんはしめ縄を右手に握ったまま、ストールを首に下げつつ、私をかばうように一歩前に出た。

「そう、ゲスト。だから、早くこれをしまってくれない? りん

 口元は微笑んでいるけれど、眼差しはいつになく険しい。

「……あんたのそういう目、久しぶりに見たわ。なんなんだよ、おっかないね」

 燐と呼ばれた女性は、けれど私をにらみすえたまま、微動だにせず問いかけた。

「その大事なゲストが、どうして沙己の分け御霊を持ってんのよ」

「必要に迫られて、砂己自らがそうした。彼女は僕らとは違う一般人だから、分け御霊を取り出せるようになるため、鍛えてもらってるところなんだよ」

 私を見た彼女は、びっくりしたように目を見張った。櫂さんが言う。

「もう少しで砂己に戻せるようになる。それもあるから、大事なんだ」

「……じゃあ、砂己を脅すかして分け御霊を手に入れた輩じゃないんだね?」

「違う。僕が保証する」

「ふうん……」

 彼女は私をいぶかり、ふたたび目を細める。櫂さんが言った。

「燐。このこと、月乃下つきのした家の面々に内緒にしておいてもらえるかな」

 燐さんはあからさまに苦笑した。

「お願いしてるみたいだけど、あたしには命令にしか聞こえない。あんたの怖さはよく知ってるからね。……まあいいわ、その手離して」

 櫂さんがパッと手を離すと、しめ縄が小さくなっていく。燐さんの手首におさまったのと同時に、私の身体の硬直もとかれた。いっきに呼吸し、息を吐く。

「で?」

 燐さんが私を見る。

「本家の大事なゲストで、わけあって沙己の分け御霊をもってるあんたが、なんでこんなところにいるのよ」

 そう訊かれたとたん、なにをしにきたのか思い出した。

 ポケットのナイフをふたたび握りしめ、あと数歩でたどりつけるホテルを視界に入れる。そのとき、

「紬さん」

 櫂さんが手をのばしてきた。

「そのポケットの中にあるもの、僕にちょうだい」

 ――えっ。

 責めるでも怒るでもない、静かな瞳。

 頭から冷水を浴びたかのように、冷静さがいっきに戻る。

 そのせいで頭の中が真っ白になり、なにも言えなくなってしまった。と、燐さんはしびれをきらしたように嘆息する。

「……あのさ、こっちも暇じゃないんだよね。もういいわ、なんでもいいからあとはそっちで好きにして、こっちの仕事の邪魔しないで。とにかく、さっさと追いかけてるネズミ捕縛しな。じゃなきゃ、こっちも身動きとれないんだからさ」

「わかってる。二、三日内に決着つけるよ」

「マジでそうして。それと、その子のこともきっちり尻拭いしなよ。あんたは本家の次期当主候補なんだから、足元すくわれかねないよ」

 櫂さんが薄く笑う。

「わかってるさ」

 燐さんはまた私を見て顔をしかめ、足元から姿を薄くしはじめる。

 いや、ダメだ、待って!

「あ、あの!」

 私がどうにかしたかった。この手で、どうにかしたかった。でも、それは燐さんたちの邪魔になることだ。

 彼女たちの邪魔をしたら、捕まえられるものも捕まえられなくなる。そんな単純なことすら、私の思考から抜け落ちていた。それほど私は、怒りで我を忘れていたんだ。

 私は拳を握りしめ、思いの丈を声にした。

「……千海、絶対に捕まえてください。捕まえたら、二度と外に出られないようにしてください!」

 輪郭を薄くさせていく燐さんに詰め寄り、たたみかけた。

「あいつから自由を奪ってください。お願いします。約束してください!」

 目に涙が浮かんでいく。燐さんはなにも訊かず、ただ一言、

「……わかった」

 そう告げると、突風に巻きあがる煙のように、その場から飛び去った。

 千海が捕縛されたとしても、私のこの怒りはきっと一生消えないだろう。

 それを思うと、せっかく抜けだせたと思っていた泥沼に、ふたたびずぶずぶとはまっていく感覚におそわれる。

 ああ、ママみたいになってしまう。

 もうダメかもしれない。もうがんばれないかもしれない。

 うつむいた私は唇をかみしめ、必死に涙をこらえた。

 あんなクズから生まれた自分が憎い。


 こんな私、生まれてこなきゃよかったのにな――。


「甘いもの好き?」

 突然、櫂さんに訊かれた。思わず顔をあげる。

「せっかくだから、おいしいフルーツタルト買って帰ろう。つむぎさんの持ってるそれ、そういうの切るためのものでしょ?」

 手を差しのべた櫂さんが、私に向かって柔らかく微笑む。

「帰ろう」

 その言葉を耳にした瞬間、こらえていた涙がいっきにあふれ、とうとう私は泣いてしまった。


 ――帰ろう。


 生まれてはじめて、誰かに言われた言葉だったから。

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