第14話 ガチ鬼ごっこ

 結局、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。

 まだ日ののぼりきっていない、薄曇りの早朝。できないなりに朝食を準備していると、ぐったりとした美月みつきさんがすり足で居間にきた。

「あー……久々にマジできっつい……」

「お、おはようございます。おつかれさまです」

「うす……」

 美月さんの金髪は乱れに乱れている。顔半分を隠していたストールをはずすと、「腹減った」と泣きそうな顔をした。

「おお、飯じゃん! すげー嬉しいわ」

「卵焼きとお味噌汁と漬物だけなんですけど」

 その漬物は、美月さんが漬けているぬか漬けなのだけれども。

「食いたいけど、ちょっといま食う力ねー……」

 縁側のそばまでいくと、精根尽き果てたかのようにうつ伏せで倒れた。ねほりはほり訊ねたいところだけれど、あきらかにそれどころじゃない。とりあえず、座布団をふたつに折って美月さんの頭にそっと滑り込ませるも、すでに寝息をたてていた。

「おはようー」

 かいさんが戻る。

「ああ、ご飯ができてる。助かるな」

 充血した目は赤く、飄々とした佇まいとは裏腹に、ぴりりとした険しい気配をまだ残している。

「おはようございます」

 櫂さんは控えめなあくびをしながら、ストールをはずした。

「着替えてからご飯にするよ。昨日のスイカ食べた?」

 食欲がなくて、手をつけていないままだ。

「あっ、いえ……食べていないです」

「そうなの? じゃあ、小さく切っておいてくれる? デザートにして一緒に食べよう」

 わかりましたと答えようとしたとき、爆睡していると思っていた美月さんが、枕に顔を押しつけたまま「俺も食う!」と叫び、ふたたび寝息をたてはじめた。櫂さんと視線を交わし、笑う。と、櫂さんの雰囲気がやわらかなものに変わった気がした。その瞬間、無事に終わったのだと私は直感した。

 きっと、あの紊者びんじゃ捕縛ほばくできたんだ。だとしたら彼も大丈夫だし、私の出る幕もなくなった。それまで張っていた気がすっかりゆるみ、思わず口にしてしまった。

「捕まえたんですね!」

 櫂さんが爽やかに微笑んだ。

「うん」

 ああ、やっぱり。よかった!

 満面の笑みを浮かべると、しかし櫂さんは笑みを陰らせ、視線を遠くさせた。

「五体くらいの分身コピーはね。けど、煙みたいに消えちゃうから、本体を捕縛しなくちゃどうにもできない。あんなにうまいコピーを使う紊者ははじめだ。おかげでこっちは陣界に引き入れるどころか、札幌中を飛びまわるはめになった」

「えっ。じゃあ、まだ……?」

「そう。いったん引いて仕切りなおすしかない……ってことで、シャワー浴びてくる。スイカよろしくね」

 櫂さんが居間を出ていく。私はその場に立ちつくした。


 * * *


 朝ごはんとスイカを食べたあと、櫂さんと美月さんは仮眠をとった。

 二時間ほどで起きた櫂さんは、今日は自主トレーニングをしてほしいと私に言い残し、仕事着の袴姿で通界つうかいに消えた。代わりに羽伊さんが戻り、食事を終えるとすぐ自室に去った。

 彼らが忙しく動いている間、私は櫂さんに言われたとおり、道場でトレーニングに専念した。頭の中がいろんな思いや思考でぐるぐるするけれど、とにかく無心で身体を動かした。

 体幹を鍛え、走り込み、身体をほぐして柔らかくさせる。すべてを終えてから、床を乾拭きした。午後からは、裏手の森で美月さんに相手をしてもらう予定だったけれど、さすがに無理だろう。

 こんなとき、私じゃなくて砂己さこさんがいてくれたらと心底思う。早くどうにかしたくても、こればかりは無茶できないので気持ちばかり焦ってきた。

 落ち着くためにいったん母屋に戻り、砂己さんの様子をうかがってから、一人で軽い昼食をとる。それからふと思いたち、森にいってみることにした。

 鳥の声がこだまする、鬱蒼とした森を歩く。

 ときおり吹く風が心地よく、深呼吸をしながら目を閉じようとした矢先、気配を感じて振り返る。デニムにTシャツ姿で頭に手ぬぐいを巻いた美月さんが、あくび交じりに腕をのばしていた。

つむぎっち、あんま時間ねーからがっつりってわけにはいかねえけど、せっかくだからちょい遊ぶか」

「えっ? い、いえ、今日はいいですから、休んでください!」

「寝たし食ったしじゅうぶんだ。準備体操のつもりでやるから心配すんな」

 そう言って足を屈伸させると、にやっと笑う。

「二十分一本勝負の鬼ごっこしようぜ。紬っちが鬼で、俺にタッチできたら試合終了。タッチできなくても、二十分で終了な」

 わざわざ起きてきてくれたのだ。この機会は逃せない。そう思ったとき、ふいにひとつの考えが頭の中に浮かんだ。

「あの、紊者……まだ捕縛できてないって櫂さんに聞きました。なので、もしも私が美月さんにタッチできたら、私にもなにか手伝わせてもらえませんか?」

 美月さんが目を丸くした。

「もちろん、みなさんの邪魔はしません。ほんとになんでもいいんです。ただ……雑用みたいなことでも力になれたらいいなと思って」

「飯作ったりとか掃除とか、砂己の見守りとかやってくれてんじゃん?」

「そ、そうですけど。でも、もっと突っ込んだ手伝いもしたいんです」

「突っ込んだ手伝いか……。けど、バイトあんだろ?」

「いまは毎日じゃないし、長時間でもないので」

 逡巡する様子を見せた美月さんは、あっさりと言った。

「まあ……そうだな。俺にタッチできたら、雑用みたいなこと頼んでもいいかもな」

「本当ですか?」

「本音を言えば今回の件は、猫の手も借りたい状況になってきてる。けど、マジで雑用程度だぞ?」

「それでいいです。ありがとうございます!」

 美月さんが笑った。

「まだ早えって。俺にタッチできたらだからな」

「はい、がんばります。よろしくお願いします!」



 速い、速い――速すぎる!

 スタートとともに木々の間を駆け抜けていった美月さんは、やがて平然と幹を駆けあがり枝葉を飛び渡り、一分も経たずに姿を消してしまった。

 なんとか追いかけていたつもりの私は、彼のあまりの速さに呆然とし、その場に立ちつくしてしまった。そのとき、

「どうした、もう終わりか?」

 すぐうしろで声がした――って、いつの間に!?

 とっさに振り返ってタッチしようとした矢先、美月さんはその場から飛ぶように姿を消し、今度は枝の上から私を見下ろした。

 視線で追うこともできないなんて。きっとこれが、美月さんの本気だ。

「やっぱり、いままで手加減してたんですね」

「ある程度勝たせて、やる気にさせる方法だ。俺は褒めてのばすタイプだからな」

 どうにも悔しい。タッチができなくても、せめて視界に入れることくらいはしたい。「ちょっと時間ください。気合い入れます」

 髪を縛りなおしながら、羽伊さんの言葉を思い出す。


 ――ただなにも考えずに走る、飛ぶ。影にまかせて、影と遊ぶ。


 深呼吸をし、木漏れ日を見つめて気持ちを静めた。

 息を吸い、息を吐く。そのことだけに集中しながら、目に映るものをただ眺める。

 地面に落ちる枝葉の影が、風にそよいで揺れている。じんわりと丹田に熱が帯びていくとともに、暗がりの影にとけていくような、はじめての感覚があった。


 気づいたときには、走っていた。

 走る。駆ける。Tシャツのうしろ姿をひたすら追う。


 身体が羽みたいに軽い。地道なトレーニングが、すみずみにまで活かされているのがわかる。目に映る景色も闇になり、ただ一点の背中に的を絞る。的の足跡がポッと光るので、影踏みのようにその跡をつま先でつき、宙を駆け渡った。

 的が振り返る――と、私の視界から消える。いや、まだだ。まだいる。

 闇を蹴り、宙返りをした先の反対方向に、的の背中があった。

 手を伸ばし、指先が的の肩に触れそうになった矢先、いきなり視界に森が戻る。刹那、身体の重さが地面に引っ張られ――。

「――うあっ!」

 私をかばおうとする美月さんの動きもむなしく、あっけなく地面にドサリと落ちた。

「大丈夫か!」

「だ、大丈夫です……!」

 私を起きあがらせてくれた美月さんの肩に触れ、「タッチ」と言ってみた。美月さんは呆れ顔で「それはねえな」と苦笑する。

 ですよね、すみません。

「あと五分残ってるけど、まだやるか?」

「えっ、そんなに経ってたんですか!?」

 体感としては、数十秒だ。まさか、十分以上も経っていただなんて信じられない。

「時間の感覚が戻ると、めちゃ疲れるだろ」

 立ちあがっただけで全身が鉛のように重く感じられ、私はうなずいた。

「はい……。もうさっきみたいには動けそうにないので、残念ですがまた今度お願いします」

 森を歩きながら、眼鏡をかけなおして息をつく。道場と母屋が見えてきたとき、前を歩く美月さんが言った。

「俺たちの依頼元から、更新された情報が定期的に入ってくる。みんなが共有できるように俺が整理してたんだけど、それをやってもらえるなら本気で助かる」

「えっ?」

 思わず聞き返す。

「タッチはされなかったけど、あと五分あのままだったらそうされてたかもなあ」

 美月さんが振り返る。

「マジで砂己かと思ったわ。一瞬だけどな」

 そう言うと、くしゃりと笑ってくれたのだった。

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