第13話 急転直下[2]
なにこれ。いったいどういうことなの。いや、わかってる。予感はある。
まさか、そんな。
私はやっとの思いで、
「う、羽伊さん。あの、こ、この人、信号が青だって言って……。でも、赤だったんです」
声が震える。
「彼の目だけをくらます術が、信号機にかけられたんです。前にも何度かあったので、こういった通りは常に鬼門です」
「そ、それでこの人、どうするんですか」
「一瞬見られた俺の記憶を消したので、起こしてから自分で帰ってもらいます」
「え? 記憶とか、消せるんですか?」
「短時間の記憶であれば可能です。催眠術みたいなものですが、俺たちの存在を知られるわけにはいかないので」
「でも、この人が一人で帰る間に、またいまみたいなことがあったら……?」
「もちろん、陰ながら警護します」
羽伊さんも
考えたくはないけれど、点を線にするにはそれしかない。
「さっき、あのあたりで男の人を見ました。なんだか、どこにでもいる会社員みたいでした。でも、もしかして、あの人が……」
――
羽伊さんは険しげな表情で、「そうです」とうなずいた。
「今夜は全員、戻るのが朝になるかもしれません」
そう言って、ぐったりしている彼の額に手のひらをかざし、二本の指でツンと突く。瞬間、羽伊さんは闇色の両袖を交差させ、自分の姿の輪郭を薄くした。
びっくりして身動きを忘れていると、目を閉じていた彼が三秒ほどを経て、ゆっくり顔をあげた。私はとっさに数歩引きさがり、彼に背中を向ける。そうしてから、肩越しに様子をうかがった。
彼は疑問に思う様子もなく、信号機が青になるのを待ち、やがてなにごともなかったかのように通りを渡っていく。自分を守ってくれている存在がその数歩うしろにいるなんて、夢にも思わないままに。
久しぶりに彼を見られて、飛びあがりたいほど嬉しかった。
ふわふわとした気分のまま帰ってお風呂に入り、他愛のない妄想をして眠りたかった。でも、そんなこともうできない。
どうしようもなく重苦しい不安が、胸の奥にどんどん広がっていく。
信じたくない。けれど、現実はいつだって無情で残酷だ。
――彼が、紊者に命を狙われているターゲットだったのだ。
* * *
私にとって、人生は灰色の罰ゲームだ。
まともに楽しく生きられたらラッキーだし、そうでなければこの世界を去る瞬間まで、期待を抱かず希望ももたずに淡々と時間を消化することに専念するだけ。
必要以上に他人と関わらず、いまの自分にできることを真摯にこなし、流れていく現実を車窓から眺めるみたいにしていれば、どんな波風もいずれ落ち着いていく。
ずっと、そう思って生きていた。
彼を、目にするまでは。
彼について知っていることといえば、好きなおにぎりの具と、よく買っていくアイスとのど飴。どことなく疲れているように見えるときは、肩こり解消を謳っている入浴剤を必ず買っていく。でも、どこで働いているのか、好きなことや趣味はなんなのか、コンビニから出た彼のことは親切で優しいこと以外、なにも知らない。
完璧な人はいないから、彼にだってきっと欠点はあるだろう。私のこの気持ちだって、恋に恋しているだけかもしれない。
でも、彼は、私の罰ゲームじみた世界を変えてくれた。
もしかしたら、この世界は色とりどりで美しいのかもしれないと思わせてくれた、唯一の人なのだ。
――そんな彼が、殺されかけているなんて。
「……眠れない……」
月明かりの差し込む部屋で、何度めかの寝返りをうつ。
スマホを見ると、午前二時を過ぎていた。
羽伊さんもついているのだし、櫂さんと美月さんもいるのだからと思っても、今度は彼らのことも心配になってくる。
考えすぎのせいで頭が冴えてきた。眠ることを諦めて起き、静まり返った外を見る。きっと、まだみんな帰っていない気がする。ため息をついた瞬間、なぜか無性に泣きたくなった。
紊者の顔が脳裏に浮かぶ。
あの顔が、なぜか遠い昔に別れたきりのパパを連想させた。
あの紊者、自分の家族とかいるんだろうか。もしも子どもがいたら、自分の父親がお金のためにあんなことをしているって、きっと想像もしていないはずだ。
お金、お金、お金。みんな、お金のためになにかする。お金はなければ大変だけれど、たくさんあるからといって幸せなわけじゃない。
くだらない欲に翻弄される身勝手さに腹がたち、幼いころに押し込んだはずの感情があふれてきて、涙になった。こんなふうに泣くことなんてずいぶん長い間なかったのに、激しい憤りのせいで止められない。
なにが正義かなんて、私には断言できない。けれど、ささやかに生きている人が殺められ、殺めた側がのうのうと生きていられる世界は違うと思う。
それこそ、地獄だ。
今夜、紊者が捕縛されたらそれでいい。けれど、もしもそうでなければ、砂己さんの代わりにはなれないとしても――。
「私にも、なにかできないかな」
ふと思いたち、Tシャツの下に手を入れ、分け御霊のあるあたりに指を添わせた。瞬間、痛みもなく爪先が肌に埋まった。驚き、とっさに手を引っ込める。落ち着いてからもう一度試すも、爪先で止まった。
ゴールが近づいていると、はじめて実感できた。この分け御霊をもっている間だけでも、せめてなにか手伝いたい。
紊者の追跡は無理だとしても、陰ながらあの彼を守る手伝いができたら、この世界が地獄に堕ちていくことを、私にも少しは止められるかもしれない。
そうすればあの紊者だって――少なくとも一人は、殺さずにすむのだから。
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