第12話 急転直下[1]
冷静に考えるとものすごくおかしいことなのに、たったの二往復ほどで慣れてしまった。人間っておそろしい。
早く
大変なのに、どこか楽しい。
家族にはいい思い出がないから、自分以外の誰かと暮らすことなんて一生ないと思っていた。それなのに私はいま、月乃成家での暮らしに居心地のよさを感じはじめてしまっているのだ。
地道な筋トレや身体の使い方、ストレッチ、ときには瞑想を教えてくれる櫂さんだけれど、制御された穏やかさに険しさが見え隠れする。それは、弟妹といとこを率いている責任と守護を、いつも自分に課しているからかもしれない。
赤の他人でよそ者の私にも、彼らは親切だ。けれどそれは、私が砂己さんの分け御霊を持っているからだということも、ちゃんとわかっている。
この縁は、分け御霊を戻すまでのこと。戻してしまったらきれいさっぱりに切れて、二度と会えない予感がする。
それが怖い。怖いと感じることがもっと怖い。
この感情は危険だ。一人に戻ることを気楽ではなく、さびしさととらえてしまうから。
でも、とも思う。いずれ私は、そんな気持ちにも慣れるのだ。そうしてちゃんと、自分だけの暮らしに戻っていける。
だから、大丈夫。楽しさに気づいてしまってもいつか忘れられる。
それもまた、慣れと同じ人間の習性だって、私はちゃんと知っているから。
* * *
「はい、
オーナーに明細書を手渡され、私はありがたく受け取った。
「新人さん見つかったし、病みあがりだから無理しないでね」
「ありがとうございます。オーナーこそちゃんと休んでくださいね」
はいはいと笑うオーナーに会釈し、リュックを背負ってコンビニを出た。
真夜中の手前。闇夜に浮かぶ月を見上げながら、人影のない歩道を歩く。
とりとめのないことを考えるのはやめて、楽しいことを思い浮かべることにする。
あーあ、せめて片思いのあの人がきてくれたらよかったのにな。
いまの私にとってはあの人が唯一、自分らしい暮らしに引き戻してくれる存在だ。でも、今日もあの人を拝めなかった。
ずっと定時っぽい時間帯にきてくれていたのに、きっと忙しくなってしまったんだ。どんな仕事をしているんだろ。営業とかかな。
妄想がふくらみそうになったとき、談笑する同年代のカップルとすれ違った。仲良さそうに手をつなぎ、アイスを買って帰ろうなんて話している。
「食べたいけどやだなー。太るー」
「なに言ってんの、一緒に太っちゃおうよ。道連れにしてやる」
やだーと彼女が笑う。すれ違った私も、微笑ましくて思わず笑みを浮かべてしまった。けれど、すぐに真顔に戻す。
あんなふうに恋して結婚したって、いずれ憎みあって離婚したりする。相手の顔も見たくなくなって、結婚したことすら後悔する人だっている。
私のパパと、ママみたいに。
だから、私はいらない、誰もいらない。アイドルを追いかけるみたいな片思いでだけでいい……と、横断歩道を渡りきって顔をあげたとき、スマホで話しながら歩いてくる人影が視界に飛び込んだ。その瞬間、私の鼓動が跳ねあがる。
――うそ、やった。あの人だ!
あくびをした彼が、目頭を指で押さえた。ジャケットからのぞくネクタイは、少しゆるんで曲がっている。彼が街灯の下を通った。
「……ああ、うん。母さんも無理しないで。そうだね、お盆は帰れるよ」
耳障りのいい話し声とともに、眠たげな笑顔がはっきり見えた。わ、かわいすぎる! ああ、嬉しいな。嬉しすぎて、なにもかもどうでもよくなってきた。
「六花亭? ああ、あのお菓子ね。父さん好きだったもんね。うん、お墓参りに買ってくけど、まだ気が早くない?」
クスクスと笑いながら、私に目もくれず横を過ぎる。
「また電話するよ。信号青だからきるね。身体に気をつけて。おやすみ」
そう告げるや、早足になった。そんな彼の姿を少しでも見ておきたくて、ストーカーじみてるかなと不安を覚えたものの我慢できず、振り返って目で追った。
あれ?
横断歩道の先にある信号機は、赤だった。それにもかまわず、彼は走る。
横断歩道に飛び出した瞬間、トラックが迫りくる――なに!?
無心で追いかけ、彼のジャケットをつかもうとした矢先、黒い影のようなものが私を追い抜いた。刹那の突風に目をすがめた直後、闇に溶け込む人影が彼に追いつき、彼の前に出、彼の動きをはばみ、右手二本の指先を左右に動かす。と、トラックはスピードを落とすことなく、まるでその人影と彼を避けるかのようにすんなり通過した。
袴の裾が風にはためき、淡い霧のようだった人影の輪郭が、現実の世界に浮きあがっていく。
羽伊さんだった。
名も知らない彼が、呆然としたような声をあげる。
「えっ、え……!?」
戸惑う彼の額を、羽伊さんが指でツンと突く。すると、口を閉ざした彼は踵を返し、羽伊さんとともにこちら側にくる。そうして、立ったまま目を閉じて静止した。
どうして羽伊さんが、ここにいるの? いったい彼に、なにをしたの!?
混乱する私の目に、通りを渡った先の信号機を覆いつくす無数の黒い羽が映り、息をのむ。あれは、あの夜の公園で見た、砂己さんが襲われていたときと同じものだろうか――と、そのとき。
信号機の奥、建物と建物の間の陰に、ぼんやりと浮かんだスーツ姿の人がいた。
遠目なのに、なぜかはっきりと顔が見える。五十代くらいだろうか。少し乱れた髪、落ち窪んだ双眸に痩けた頬。一見すると、疲労感をにじませた通りすがりの会社員に思える。
でも、違った。
男性の背後に、闇色の袖をひるがえす存在がひっそりと立った。顔半分をストールで隠しているけれど、誰なのかすぐにわかる。美月さんだ。
左手首にあるしめ縄のような腕輪に人差し指をひっかけ、引く。すると、腕輪は太いしめ縄に変化しながら、まるで魔術のようにどんどんと長く伸びていく。それを右手で握りなおした美月さんは、手前にいる男性の身体をくぐらせようとした。寸前、男性は恨めしそうにこちらを見ながら、景色に溶けていくかのように姿を消した。
「……やっとあらわれたと思ったら、またコピーか」
いつの間にか、私の横に櫂さんがいた。周囲に目を配り、向こう側にいる美月さんに身振りをする。うなずいた美月さんが闇に消えると、櫂さんが私を一瞥した。
「とうとう仕事中に会っちゃったね。冷蔵庫にスイカあるよ」
ストール越しに微笑み、そう言い残すや姿を消した。
――え、なに。これ、どういうこと?
羽伊さんと歩道に立って目を閉じている彼、そして、あ然とする私がその場に残された。
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