第11話 笑顔かもしれない

倉本くらもとさん、もう平気?」

「やっぱなんか痩せました? 大丈夫っすか?」

 夕方。五日ぶりにバイト先へ行くと、オーナーとちーちゃんに言われた。

「だ、大丈夫です。ほんとすみませんでした!」

「ご親戚のお家でご馳走になってあたっちゃったって聞いたよ。災難だったねえ」

「生牡蠣おいしいっすけど、あたるとほんとマジでヤバいですもんね。あたしの友達もあたったことあってげっそりしてたんで、わかりますよー」

 嘘の罪悪感がすごい。心の中で二人に謝罪しつつ、店内を軽く掃除した。

 慣れ親しんだ環境に戻ることができて心底ホッとする。たった五日のことなのに、その間の出来事があまりに濃すぎて、まるで数か月も不在だったように思えてくる。

「そういえば、あの人最近あんまこないんすよー」

 バイトに戻れて一番嬉しかったのは、片思い中のあの人を拝めることだった。それを心の支えにして、日々をのりきったといっても過言じゃないのに。

「ほんと?」

「ほんとっす。けど、残業とかで深夜枠に出没してるかもですねー」

「ああ、それかー」

 あるあるすぎて、遠い目をしてしまった。なんの接点もないのでじっと待つことしかできないのが、なんともせつない。

 お客さんがきたので、会話をやめてレジに立つ。いつもの業務をこなしながら、お客さんが来るたび出入り口を見てしまった。けれど、とうとう彼はこなかった。

 残念だけれど、こんな日もある。むしろこんな日ばかりだ。だからこそ、次に彼を見ることができたら、嬉しさも倍増するはず。そのときを楽しみにして、いまは自分にできることに集中するのみだ。

 シフトを終えてちーちゃんと別れ、いったんバス停に向かって歩く。そこを素通りして横断歩道を渡り、スマホにメモした住所を目指した。

 閑静な住宅街の一角に平屋の空き家があり、周囲に気を配りつつドアノブに手をかける。見知らぬ家の玄関ではなく、月乃成つきのなり家の母屋と離れをつなぐ廊下にあがり、靴を脱ぐ。そうして、アパートのように並んでいるドアのひとつを閉めた。

 母屋に向かうと居間の障子扉が開き、美月みつきさんが顔を出した。

「おつかれー。飯食う?」

 この空間の歪み――通界つうかいにまだ慣れないものの、私はなんとか笑顔で返答した。

「ありがとうございます。いただきます」


 * * *


 私のバイトは夕方からの六時間で、週六日。でも、砂己さこさんに分け御霊を返すまではトレーニングに集中したいので、来週は週三日のシフトにしてもらった。

 バイトのある日もない日も、ルーティンは基本的に変わらない。ただし、バイトのない日は夕食後、一人で敷地内を走ったり、軽い筋トレをしてもいいというお許しがでた。

 月乃成家に居候して六日目。

 みなさんが出払った夜、敷地内を三十分ほど走り込んだあと、すでに身体にしみついている筋トレを三セットおこなう。日を追うごとに全身の違和感が減っていき、疲れにくくなって、動きにも俊敏さがくわわりはじめた。

 ストレッチをすませて母屋に戻ろうとした矢先、こちらに向かってくる人の気配に気づく。

 出入り口を向いた私は、師匠を迎える弟子のごとく居住まいを正した。あらわれたのは、普段着の羽伊ういさんだ。

 正座している私を見るなり、驚いたように立ち止まった。

「俺の気配に気づいたんですか」

 一方、私もはじめて目にした彼のデニムとパーカー姿にびっくりし、思わず目を丸くする。

「は、はい。なんとなくですが、わかりました」

 どことなく髪が濡れているように見えるので、風呂あがりかもしれない。

 闇に溶け込むような着物と袴は、カゲモノの仕事着だと美月さんに教えてもらった。だから、普段はスカジャンの美月さんも、ジャケット姿が多いかいさんも、仕事に出かけるときは必ず着替えていくそうだ。

 二人のその姿を目にしたことはないけれど、羽伊さんに関してはその格好しか知らないので、なんだか別人みたいに思えて妙に落ち着かない。

「無茶なことはしていないようですね」

 睨まれた。安定の威圧感に袴姿が重なり、なぜか落ち着く。服装が変わったところで、羽伊さんは羽伊さんなのだ。

「はい。今日は早いんですね」

「俺だけいったんあがりました」

 サンダルを脱いで裸足になり、道場に入ってくる。

「あなたの動きがかなり砂己に近づいてきたと、美月が言ってました」

 近づいているのかどうかはわからないけれど、空手の延長線のようなやりとりはストレス発散にもなってすごく楽しい。でも、美月さんが手加減をしてくれていることには、なんとなく気づいている。

「私が勝ってしまうこともあるんですが、本当の砂己さんが相手だったら、美月さんはもっとずっと強いと思います」

 私の言葉に耳を傾けた羽伊さんは、

「そうですね。そして、おそらくもっと俊敏」

 そう言うと、天井を見上げた。

「兄や美月が天井を駆けるのを見ましたか?」

「えっ? いえ、まだです」

「そうですか。では、そろそろ一度見せましょう」

 えっ、と息をのむ私にかまわず、パーカのフードをかぶった羽伊さんは、ゆっくりと道場の隅に向かう。と、ツン、とつま先で床を蹴るや、鳥のようにかろやかに壁を駆けあがり、重力なんてないかのように天井を駆け抜け、梁に飛び移り、目にもとまらぬ速さで宙をきり、いっさいの音をたてず着地した。この間、おそらく二秒もかかっていない。


 ――え。私、いま、なにを見た?


「い、いまの……美月さんも櫂さんもできるってことですか」

 羽伊さんは息を乱すことなく、フードを払った。

「できます。もちろん、あなたも」

「でも、それは、分け御霊があるからですよね?」

「そうです」

 すごすぎてなにも言えない。でも、いま見せられたことができなければ、砂己さんは眠ったままなのだ。

「雑念に邪魔をされたら肉体感覚が戻り、先日のあなたのように落ちてしまいます。コツは、自分が人であることを忘れる。この肉体、この床や壁、あの天井も忘れる。風の音も呼吸も忘れ、ただなにも考えずに走る、飛ぶ。影にまかせて、影と遊ぶ。そうなれるまでは、ひたすら動き続けるしかありません」

「影と、遊ぶ?」

 羽伊さんがうなずいた。

「次に美月と腕ならしをするときは、裏の森にいくといい。俺から美月に話しておきます。道場と外だとフィールドが違うので、さきほど言ったような感覚をつかめたら、そのあとは早いでしょう」

 自分にあれができるのか、自信も自覚もまるでないけれど、なんとなく見えてきたゴールに気が急いてくる。

 わかりましたと告げると、羽伊さんは背中を向け、サンダルを履いた。仕事のあとで疲れているはずなのに、あんなにすごいものを見せてくれたうえ、アドバイスまでいただいてしまった。そのおかげでやる気もでてきたし励まされた。

「あの、ありがとうございます」

 おじぎをすると、羽伊さんが言った。

「好き嫌いの激しい兄が、あなたを気に入っています。美月もあなたを信頼している。でも、俺は正直よくわからない。ただ、少しでも早くあなたをあなたの世界に戻してあげたいと思っています。あなたのためにも妹のためにも、それに越したことはないですから」

 そう言って背中を向け、くしゃりと自分の髪をつかんだ。

「それと、こちらこそ。俺はここにいないことが多いので」

 ぶつ切りの言葉に戸惑ったものの、すぐに察した。見せてくれた技もアドバイスも励ましも、私が砂己さんを見守っていることに対する、彼なりのお礼だったのかもしれない。

「い、いえ。とんでもないです」

 恥ずかしさに耐えつつ言葉にすると、羽伊さんが少しだけ振り返る。

 そのとき、かすかに笑ったように見えた。

 でも、きっとそれは月光でできた影のせいで、たぶん私の見間違いだ。

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